日本一の噴水が京都にあった!

 社寺の噴水でとりわけ異彩を放ったのは京都・東本願寺の噴水である。
 
 「池の岸より竪に噴くもの五十本、池中よりするもの六本、人形や龍の口より横に噴くもの無数、それが一時にシユーとばかりに噴出し、サーとばかりに池に注ぐ、日光之に映じて幾筋の虹を現し、四囲の緑樹と対照し、最も壮麗、大歓呼、大喝采、併しながら我が本願寺の大噴水よりは低し、少し詰まらなしと京都の都人は云やはりぬ」
 これは1910年(明治43)7月6日、『東京朝日新聞』に載ったパリ・ベルサイユ宮殿の見聞録である。この年の4月6日、朝日新聞合資会社が企画した「第二回世界一周会」の会員一行は豪華客船、地洋丸に乗り込み、横浜から出航した。一行はアメリカ各地を巡り、ロンドンを経て6月4日、パリに到着。ベルサイユ宮殿を訪れたのはその翌日。この日は第一日曜で、「月に一度、年に十二度のベルサイユ宮の大噴水噴出の日」であった。「我が本願寺の大噴水よりは低し、少し詰まらなし」。天下のベルサイユ宮殿の壮麗な噴水群を前にそう漏らしたのは「京都の都人」氏である。第二回世界一周会には関西地区の会員が27名参加していた。「京都の都人」氏はおそらくそのうちの一人だろう。彼が思い浮かべたご自慢の「本願寺の大噴水」とはどのような噴水だったのだろう。
 
 かつて京都の東本願寺には日本一と称される大噴水があった。多くの京都の名所案内書が取り上げる名所で、旅客たちの目を楽しませた。「夕食後、僕は東紅子野村君と相携へて東本願寺に赴き日本一の吹上げと唱へらるゝ二十余間の大噴水の壮観を眺めて飽まで涼気を味わひ…散歩して宿に帰ると八時頃汽車の出発時間九時四十分には最う間も無い所であつた」(静岡民友新聞、1908年8月28日)。
 大噴水のあった場所は、石倉重継『大谷派本願寺名所図会』(1902年)に掲載された「京都市大谷派本願寺境内全図」がイメージしやすい。東本願寺の北側の一角に大池があり、高々と噴き上がる噴水が描かれている。現在東本願寺の周辺にこのような池はない。1909年(明治42)10月の新聞記事に「東本願寺にては曩に外郭北手の噴水を埋立てヽ(以下略)」とあることから、その頃までにこの噴水池は埋め立てられたようだ(大阪毎日新聞東本願寺境内取拡」、1909年10月26日)。

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 この噴水池は1895年(明治28)の東本願寺の両堂再建と深い関係がある。東本願寺の堂宇の中心をなす両堂、すなわち大師堂(御影堂)と阿弥陀堂は、江戸時代を通じて四度、再建しては焼失するという歴史を繰り返した。四度目の焼失は1864年(元治元)、幕末の動乱のさなかに起きた蛤御門の変による火災が原因であった。五度目の再建となる明治の両堂造営は1879年(明治12)に発起し、1895年(明治28)に竣工する。度重なる焼失を受け、関係者の防火への意識は並々ならぬものがあった。その防火対策の一つは「本願寺水道」として結実する。

 両堂再建工事と並行し、東本願寺田辺朔郎に防火対策への協力を求めた。田辺朔郎琵琶湖疏水を設計した土木工学者である。琵琶湖疎水は琵琶湖と京都を結ぶ水路で、完成により京都には豊富な水がもたらされた。『田辺朔郎博士喜寿年譜』(1937年)によれば、琵琶湖疏水が竣工した直後の1890年(明治23)8月12日、東本願寺の渥美契縁が「防火の件」でさっそく田辺を訪ねている。契縁は東本願寺で議事、執事、寺務総長などの要職を歴任した僧である。早くから東本願寺琵琶湖疏水の利用に目をつけていたのだろう。『建築雑誌』104号(1895年)の記事によれば、火災保険を掛けようにも保険料が非常に高額になることも防火工事の後押しになったようだ。田辺は1894年(明治27)に仕様書を東本願寺に提出し、工事に取り掛かった。工事は1895年(明治28)1月に始まり、翌年末に落成する。琵琶湖疏水から分水して蹴上に防火用の水源地を造り、そこから鉄管で東本願寺北側の火除地まで引水し噴水池を設ける。さらに鉄管を境内、両堂の屋根や庇にめぐらせ、いざ火事となれば縦横に水を噴き出し、両堂を水で包み込むという壮大な計画であった(『太陽』第4巻第6号、田辺朔郎「京都大谷派本願寺火防用水試験写真説明」、1898年)

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 火除地の池に美観を添えた大噴水は、1895年(明治28)3月に完成した。水源地のある蹴上との高低差による水圧を活かし、高さは130尺(約40メートル)以上に及んだという。設計者の田辺は、天に向かって高々と噴き上げる噴水の姿を龍にたとえ、「遠く望めば白龍の天に昇らんと欲するが如く、世界に噴泉多しと雖も、斯る高大なるものは甚だ稀れなるよし」と胸を張った(日出新聞、1895年4月14日)。白龍のたとえはこの大噴水を形容する定番の言い回しとなり、「大白龍の高く空を昇るの壮観」(日出新聞、1895年9月22日)、「白龍躍ると云つた東本願寺の大噴水」(日出新聞、1910年7月17日)としばしば登場する。噴水の偉観はうるさがたの眼鏡にもかなった。各地で公園の設計を手がける一方、噴水には批判的であった造園家の長岡安平もこの噴水には一目置いたようである。「噴水といふものにハ賛成しない方であるが東本願寺のハ模範とする丈けの値があると思ふ、池の水面から僅か一尺か二尺かの所から烟のやうに噴き出して居るが壮観である、自ら据え附けるなら彼れが可からう」と高く評価している(都新聞「諸国名園の話(九)」、1903年8月20日)。

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渥美契縁と東本願寺大噴水

 京都の市中に眺望をさえぎる高い建物がなかったおかげだろう、この大噴水は「二里余を隔てし所よりも尚明に見るを得たり」、約4キロ離れた場所からもはっきり見えたという(日出新聞、1895年4月17日)。さらには直線距離で7、8キロは離れた嵐山からこの大噴水が「明に見るべし」とも報じられている(『風俗画報』1895年6月18日号)。市街地から立ちのぼる白龍。京都の景観に与えたインパクトは相当なものだったのではないだろうか。

 もっとも、常時40メートルもの噴水を上げようとすれば、こんな問題に直面する。「風ある時は室町通りの人雨に濕ふ」(日出新聞、1895年4月6日)。水しぶきが風に流され、近くの通りを往く通行人は雨に降られたような有り様になった。結局、平時には水道の開閉弁を調節し、噴水の高さを60尺(約18メートル)程度に抑えることになった。しかし、せっかくの大噴水がもったいない。「東本願寺の噴泉は、十分登らせては烏丸通が雨に逢ふと云う、されどお祭りの間は思ひ切り騰げて欲しきものなり、責て風の無き日丈けなりとも、大坂には五色の火をもて照らせる噴水もあるものを大白龍の空に昇るの壮観、人々に見せたきなり」(日出新聞、1895年9月22日)。東本願寺もそうした声に応えたのだろう、特別な日にはしばしば盛大に噴かせたようだ。例えば1898年(明治31)4月、大法要の準備を伝える新聞記事は「大噴水は法要中最高百六十八尺まで騰らしめ」るとの予定を報じている(日出新聞、1898年4月14日)。また同年秋に皇太子が京都を訪れた時の新聞記事は、行啓を迎える市中でこのような準備が行われたとして、「二条離宮の御濠は数日前より大掃除全く終り本願寺の大噴水は最高百七十尺の高きに上り高きより落ちて露木桂の葉に香ばしく…辻々の路便所には凡て葭簀を以て之を蔽ひたり」(大阪毎日新聞、1898年10月13日)と伝えている。
 
 さて、少し時間を戻す。1897年(明治30)8月3日。土方宮内大臣らが見守る中、いよいよ両堂を水で包む、防火噴水大試験が行われた。午前8時に噴水池の噴水を止め、水が境内、両堂の水道管に回ると「大師堂北部唐破風、二重上層軒下、同下層軒下、北部火防土手、阿弥陀堂軒下、溝際等三十余ヶ所の放水口」から水が噴き出し、若干のトラブルはあったものの、「試験の成績は先づ好良の方なり」として成功を収めた(日出新聞、1897年8月4日)。翌年の大法要でも「上京法中諸講中門徒は未だ火防大噴水の実用を知らざるに依り本日正午より両堂を水にて包み噴水せしめ一同に参観せしむる由」として集まった大勢の信徒に一斉放水の実演を披露している(日出新聞、1898年4月27日)。「遠く望めば虹を現はし近く通れば驟雨をなし其附近は頓に秋涼の如く覚へしめ奇観いふべからず」というその光景は大喝采で迎えられた(同4月28日)。

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 そのわずか一ヶ月後、本当に火災が起きた。5月25日のことである。東本願寺裏手すぐの西洞院通北小路上る、鍛治屋町で最初の出火があり、その後、飛び火したのか両堂再建工事で余った木材等を収めた東本願寺の工作場の小屋からも出火した(日出新聞「七条の大火」、1898年5月27日)。火の手に備え「噴水を留め鉄管の水を貯はへ今にもあれ火移らバ一時に噴上げの水を騰らしめんと用意し」たが、幸い両堂の大事には至らなかった(東京朝日新聞「京都大火の詳報」、1898年5月29日)。

 こうした火災が起こらず、防火設備が実戦投入されないに越したことはない。しかし、それはそれでこの奇観が人目に触れないのはもったいないと思うのも人情であろう。こうして、来訪者をもてなす余興として定番化していったようだ。「東本願寺は其筋よりも内命ありたれば愈々行啓の上は先づ枳殻邸に御休憩を請ひ庭園の景色を御覧になり夫より大師、御影両堂の大噴水を噴出せしめて御覧に供し奉る予定にて既に準備整いたりと」(大阪毎日新聞、1898年10月16日)。これは皇太子が京都を訪れたときのもの。「淳宮高松宮両殿下は…御車を東本願寺に枉げさせられたるが同寺にては特に防火栓を引抜きて御覧に入れたるに幾千条の噴水は殿堂の周囲より逆まに天に注ぎ盛夏の空に一大光彩を描き美観云はん方なく非常に興がらせ給ひ(以下略)」(大阪毎日新聞、1915年7月24日)。これは1915年(大正4)、淳宮(のちの秩父宮)と高松宮が関西行啓の一環として京都を訪れたときのもの。また皇族ばかりではなく、例えば関西の婦人団体の見学会でも余興として披露されている。大阪毎日新聞社の企画で組織されたこの「婦人社会見学団」は、第1回の大阪中央郵便局、電信局、大阪瓦斯会社の見学を皮切りに、造幣局や製紙工場さまざまな場所を訪れている。その第13回見学を創立一周年記念会として見学団は京都を訪れた。二千人を越える参加者を集め一大イベントとなったこの見学会の一コマとしてこのように記録されている。
 「非常の際にのみ開かるゝ防火栓を一時にサッと放ちたれば邸内三十幾箇所より一斉に高く高く天に冲する大噴水、折柄小春日の麗かなる光に反映し空中に五彩の色を描き出せる、真に言語に絶する偉観にしてこれや浄品の地の栄光かとも思はしむ、殊に長き廊下の棟といふ棟より銀簾逆さまに落下する光景はさながらに是れ水晶宮にあるが如きなり、『まあ美しいこと』の感嘆の声一時に堂内に動揺めき渡る」(橋詰セミ郎編『大阪毎日新聞社主催 婦人社会見学写真帖』、1920年)。記録を探せば、おそらくもっと出てくるだろう。東本願寺の噴水は先駆的な防火設備であるとともに、噴水ショーのはしりとでもいうべきものであった。