山口・徳山駅前の噴水

 とても日本の駅前の風景とは思えない、遠い南国の夜景と見間違えそうなこの絵葉書は、山口県徳山市(現在は周南市)の徳山駅前の噴水塔を写したものである。工費200万円をかけたこの噴水塔は1952(昭和27)年5月に完成する(『毎日新聞』山口版、1952年5月22日付)。

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 徳山はまさに終戦の直前、1945年7月26日の大空襲で甚大な被害を受けた。徳山駅も本屋こそ焼失を免れたが、駅一帯の市街は焼土と化した。しかし、『徳山市史』が「一大災禍ではあったが、反面では従来の雑然とした市街地に区画整理を行い、抜本的な都市計画事業を実施するためには絶好の機会を得たわけでもあった」と記すように、徳山市は市街の大改造を計画し、「十年前の徳山を知る者を昭和の浦島太郎にする位」(『徳山市広報』第43号、1952年3月25日付)の勢いで戦災からの復興は進められた。市の玄関口である徳山駅前の美化、噴水塔の設置を含む小公園の建設は1952(昭和26)年5月、用地確保後直ちに着工し、一年後に完成を見た。

 その後、徳山経済の発展とともに新たに大きな「民衆駅」(駅を国鉄と地元の共同建設とする代わりに商業施設を設ける)を建設することになった。1969(昭和44)年10月の駅ビル誕生の陰で、惜しまれつつこの噴水塔は姿を消した。ところが、徳山駅前といえば噴水という印象がよほど強かったのか、駅ビル誕生の2ヶ月後の12月に徳山市議会が決定した徳山駅前の地下駐車場新設工事には新噴水の建設が盛り込まれている。こうして1971(昭和46)年、駐車場入口のロータリーに完成した新噴水が現在の噴水である。しかし、異国情緒漂う初代の噴水の人気には及ばなかったようだ。

 宇山和昭・駅ビル営業課長「駅前の噴水を無くす時に、市民の方からも、かなり残して欲しいという声もあったように思うんですが。」

 斉藤勝補・商工会議所専務理事「そういう声はございました。やはり昔のロータリー広場のイメージは、強く残っているようです。旅をされる方も、徳山駅に降りた時は以前の噴水を思い出され、何か昔の方がいいんじゃないかなあといわれる方もいます」(座談会「駅ビルの今昔を語る」、とくやま駅ビル名店街『駅と街と店と』、1979年)

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 ところで、興味深いことに最初の噴水の計画時には女神像の噴水とする計画があった。

 「徳山名産の黒髪石をもつて一丈余の『平和の女神』の像の大墳水塔を建立する計画を立てゝいる」(『日刊徳山公論』、1951年8月18日付)

 「この女神は石膏像で等身大のもの、右手を高くのばし、金の珠か鳩を持たして、それから水を噴き出す様にする計画である」「像の製作者は市で物色中であるが、大体徳山住中の工作担任教諭高野千吉氏(四三)に一任する模様」(『日刊徳山公論』、1951年10月27日付)

 少なくとも神殿風の噴水塔が完成する前年の秋までは女神像の噴水を建てる計画があったことは確認できたが、最終的にいつの時点で変更されたのかはわからなかった。結果として徳山では女神像の噴水は幻となったが、戦後の日本各地の駅前整備と噴水の関係を考える上で面白い例だと思う。