広島軍用水道と鯉の噴水

 広島市の水道誕生には陸軍が大きく関わっていた。

 1894年(明治27)日清戦争が勃発。戦地に近い陸海交通の要地であり、前線基地となった広島には全国の部隊が集結し、大本営が置かれた。しかし、当地の飲料水は衛生状態が悪く、赤痢コレラといった水系伝染病の流行が避けられなかった。これではとても兵営や艦船への満足な給水は望めない。水道の整備を陸軍が主導した所以である。

 1895年(明治28)秋以降、勅令に基づく臨時広島軍用水道布設部が置かれた。日清戦争はすでに終結していたが、巨額の水道布設費用を日清戦争の戦費から支出するという異例の展開をたどった(『広島市水道百年史』によれば、水道布設と直接は結びつかない戦費から支出する是非を巡って帝国議会は紛糾したという)。

 軍用水道は完成後、布設部から第五師団監督部へ所管が移り、第五師団監督部が広島市へ無償で貸し下げた。市は陸軍から借用する軍用水道に市設の水道を接続、事実上一体の水道として運用し、市民一般への給水を開始した。

 水源地で通水式が行われたのは1898年(明治31年)8月25日である。

 「通水式場は既記の如く牛田村水源地内と定られ式場に至る堤防には其両側に縄を張りて数百の紅燈を吊し水源地入口の門には大緑門を造りて大国旗を交叉し門内左側には大噴水池を設け其中央に据へられたる銅製□鯉は口より水を噴くこと数十間水沫四方に飛散して時ならぬ細霧人を湿し涼気云ふべからず」(8月26日付、中国)

 街頭装飾・会場装飾に「数百の紅燈」「大緑門」「大国旗」などが用いられたほか、常設となる鯉の噴水が設けられた

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 ところでこの年のはじめ、東京朝日新聞が気になる話を報じていた。

 「広島軍用水道布設部にてハ旧大本営跡へ噴水を設くるに付其構造を鯉の形にとり其口より噴水せしめんとの議ありしところ曩に軍用水道部長児玉源太郎氏の同地に赴むきし折しも軍用上の工事として然る贅沢なる仕懸をなさんハ面白からずと云ひしため之を見合すこととなりしが其後更に宮内省に謀りしに同省の費用にて之を設けらるヽこととなりたり本来広島城ハ地形鯉に似たりとて鯉城と称へられ…こひといふこと或ひハ己斐の地名より来れりとの説もありて目出度き事になぞらへ且つ水に縁あれバ意匠頗る妙なるべしとなり」(1月30日付)

 軍用水道布設部では広島城内の旧大本営跡へ噴水を作る計画を持っていた。その噴水口を鯉の形にしようと考えていたところ、部長である児玉源太郎の反対で見合わせることになった。しかしその後、宮内省の費用でこれを作ることになったという記事である。後段の宮内省の費用で云々というくだりは、同省調査課から事実無根だと照会があったとして2月2日付の紙面で取り消されている。

 旧大本営跡の噴水はその後どうなったのか。陸軍省が作成した工事報告書、『臨時廣島軍用水道布設部報告摘要』を読んでみると意外な事実がわかってきた。

 まず、旧大本営跡へ噴水を作る計画自体は立ち消えたわけではなかった。軍が施工した施設の一つとして「旧大本営噴水池」が挙がっており、建造の経緯が詳しく記されている。「旧大本営ノ建物ニ対シ防火栓ヲ設置スルハ勿論一ノ噴水池ヲ開鑿スル設計」とあり、池には非常時の防火用水という実用的な意味合いがあったと推測される。池中には近郊の河岸から運ばせた大小の百個余の天然石を積み上げて島を作り、その中心に鉄管を通して水を噴かせた。

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 面白いことにこの噴水の築造費は宮内省から出ていた。「経費ハ宮内省ヨリ寄贈ノ金額ヲ以テ支弁スルモノトス」と明確に書いてある。東京朝日の記事は全くの誤報というわけでもなかったらしい。鯉の噴水ではないが、宮内省の経費で噴水を作っていた。では、記事を訂正させた裏にはどのような思惑が働いたのだろう。「贅沢なる仕懸をなさんハ面白からず」という児玉の(ものとされる)発言が一つの鍵となる。

 ここからは憶測である。

 水道の建設費を戦費から支出することにさえ反発は強かった。華美な噴水の築造費用まで戦費から支出したとなると、論議を蒸し返しかねない。さりとて、皇室ゆかりの旧大本営の風致をおざなりにもできない。ただ池を掘って水を引いて噴き出させただけというわけにもいかない。池の体裁を整えるのに宮内省が支出したという形なら納まりはよい。
 一方の宮内省宮内省とて、費用を支出するのはやぶさかではないが、あたかも宮内省が贅沢な設備を求めたように解されては具合が悪い。東京朝日の記事に対しては火消しに動かざるを得なかった。
 噴水は華美な意匠を避け、旧大本営と最も関係の深い「同省ニ設置ノ噴水装置ニ準」じた「質素ニシテ堅固安全ナルモノ」とすることで落ち着かせ、鯉の採用は見送る。しかし、「広島と鯉」という取り合わせの妙は捨てがたい。それでは水源地の噴水として復活採用してみてはどうか。

 想像に想像を重ねた筋書きであるが、実際はどうだったのだろう。

消された噴水・描き足された噴水

 ここに2枚の絵葉書がある。どちらも「横浜公園ノ桜」と題した絵葉書で、桜の季節の横浜公園を写したものらしい。園内にあった茶屋だろうか、店先には床几が置かれ、客とおぼしき人物が腰を下ろしている。見比べるとすぐに分かる通り、2枚は同じ写真である。しかし色は若干異なっている。これはモノクロで刷った写真に彩色を施した絵葉書で、こうした彩色絵葉書は、プロの画工が絵付けの見本をつくり、それに基づいて内職の女性たちが色を付ける作業を行ったという。配色はほぼ同じだが、桜の塗り方には実際の作業者の個性というか、性格がにじみ出ている。

 ところで、彩色の違い以上に1か所、大胆に風景が加工されている。絵葉書の左奥に目を向けよう。1枚目の絵葉書からは茶屋の後方に大中小、三層の水盤を備えた噴水と池があったことが確認できる。ところが、2枚目の絵葉書ではどうだろう。加工が甘くかすかに痕跡はあるが、それでもかなり見事に噴水と池を消し去っている。噴水を消した理由は何だろう。何らかの事情で公園からこの噴水が撤去されたが、改めて撮影する手間を惜しんで同じ写真を絵葉書の素材として使い続けた、といったことがあったのだろうか。真相はまだわからない。

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横浜公園ノ桜」絵葉書①

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横浜公園ノ桜」絵葉書②

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絵葉書①拡大

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絵葉書②拡大

 消された噴水があれば、一方、描き足された噴水もある。大礼記念国産振興東京博覧会は1928年(昭和3)3月24日から5月22日にかけて上野公園で開かれた博覧会で、2枚の絵葉書はどちらも第一会場の大礼記念館を遠景に置き、「正面より大礼記念館を望む」と題されている。

 見ての通り、2枚は明らかに同じ写真から作られた絵葉書である。しかし、片や並んだ三本の柱の上部から勢い良く水が噴き出し、片や水は出ず池も空なのだ。戦前の新聞記事を読んでいると、博覧会の開会に噴水の工事が間に合わなかったという話はよく出てくる。ちゃんと稼働していた噴水を撮った写真からわざわざ噴水を消したと考えるよりは、開会までに竣工しなかった噴水に見栄えのため水を描き足したと考えるほうが自然だろう。真相が判明次第、追ってご報告したい。絵葉書を資料とする危うさと面白さを感じさせる事例である。

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「(大礼記念国産振興東京博覧会)正面より大礼記念館を望む」絵葉書①

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「(大礼記念国産振興東京博覧会)正面より大礼記念館を望む」絵葉書②

日本一の噴水が京都にあった!

 社寺の噴水でとりわけ異彩を放ったのは京都・東本願寺の噴水である。
 
 「池の岸より竪に噴くもの五十本、池中よりするもの六本、人形や龍の口より横に噴くもの無数、それが一時にシユーとばかりに噴出し、サーとばかりに池に注ぐ、日光之に映じて幾筋の虹を現し、四囲の緑樹と対照し、最も壮麗、大歓呼、大喝采、併しながら我が本願寺の大噴水よりは低し、少し詰まらなしと京都の都人は云やはりぬ」
 これは1910年(明治43)7月6日、『東京朝日新聞』に載ったパリ・ベルサイユ宮殿の見聞録である。この年の4月6日、朝日新聞合資会社が企画した「第二回世界一周会」の会員一行は豪華客船、地洋丸に乗り込み、横浜から出航した。一行はアメリカ各地を巡り、ロンドンを経て6月4日、パリに到着。ベルサイユ宮殿を訪れたのはその翌日。この日は第一日曜で、「月に一度、年に十二度のベルサイユ宮の大噴水噴出の日」であった。「我が本願寺の大噴水よりは低し、少し詰まらなし」。天下のベルサイユ宮殿の壮麗な噴水群を前にそう漏らしたのは「京都の都人」氏である。第二回世界一周会には関西地区の会員が27名参加していた。「京都の都人」氏はおそらくそのうちの一人だろう。彼が思い浮かべたご自慢の「本願寺の大噴水」とはどのような噴水だったのだろう。
 
 かつて京都の東本願寺には日本一と称される大噴水があった。多くの京都の名所案内書が取り上げる名所で、旅客たちの目を楽しませた。「夕食後、僕は東紅子野村君と相携へて東本願寺に赴き日本一の吹上げと唱へらるゝ二十余間の大噴水の壮観を眺めて飽まで涼気を味わひ…散歩して宿に帰ると八時頃汽車の出発時間九時四十分には最う間も無い所であつた」(静岡民友新聞、1908年8月28日)。
 大噴水のあった場所は、石倉重継『大谷派本願寺名所図会』(1902年)に掲載された「京都市大谷派本願寺境内全図」がイメージしやすい。東本願寺の北側の一角に大池があり、高々と噴き上がる噴水が描かれている。現在東本願寺の周辺にこのような池はない。1909年(明治42)10月の新聞記事に「東本願寺にては曩に外郭北手の噴水を埋立てヽ(以下略)」とあることから、その頃までにこの噴水池は埋め立てられたようだ(大阪毎日新聞東本願寺境内取拡」、1909年10月26日)。

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 この噴水池は1895年(明治28)の東本願寺の両堂再建と深い関係がある。東本願寺の堂宇の中心をなす両堂、すなわち大師堂(御影堂)と阿弥陀堂は、江戸時代を通じて四度、再建しては焼失するという歴史を繰り返した。四度目の焼失は1864年(元治元)、幕末の動乱のさなかに起きた蛤御門の変による火災が原因であった。五度目の再建となる明治の両堂造営は1879年(明治12)に発起し、1895年(明治28)に竣工する。度重なる焼失を受け、関係者の防火への意識は並々ならぬものがあった。その防火対策の一つは「本願寺水道」として結実する。

 両堂再建工事と並行し、東本願寺田辺朔郎に防火対策への協力を求めた。田辺朔郎琵琶湖疏水を設計した土木工学者である。琵琶湖疎水は琵琶湖と京都を結ぶ水路で、完成により京都には豊富な水がもたらされた。『田辺朔郎博士喜寿年譜』(1937年)によれば、琵琶湖疏水が竣工した直後の1890年(明治23)8月12日、東本願寺の渥美契縁が「防火の件」でさっそく田辺を訪ねている。契縁は東本願寺で議事、執事、寺務総長などの要職を歴任した僧である。早くから東本願寺琵琶湖疏水の利用に目をつけていたのだろう。『建築雑誌』104号(1895年)の記事によれば、火災保険を掛けようにも保険料が非常に高額になることも防火工事の後押しになったようだ。田辺は1894年(明治27)に仕様書を東本願寺に提出し、工事に取り掛かった。工事は1895年(明治28)1月に始まり、翌年末に落成する。琵琶湖疏水から分水して蹴上に防火用の水源地を造り、そこから鉄管で東本願寺北側の火除地まで引水し噴水池を設ける。さらに鉄管を境内、両堂の屋根や庇にめぐらせ、いざ火事となれば縦横に水を噴き出し、両堂を水で包み込むという壮大な計画であった(『太陽』第4巻第6号、田辺朔郎「京都大谷派本願寺火防用水試験写真説明」、1898年)

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 火除地の池に美観を添えた大噴水は、1895年(明治28)3月に完成した。水源地のある蹴上との高低差による水圧を活かし、高さは130尺(約40メートル)以上に及んだという。設計者の田辺は、天に向かって高々と噴き上げる噴水の姿を龍にたとえ、「遠く望めば白龍の天に昇らんと欲するが如く、世界に噴泉多しと雖も、斯る高大なるものは甚だ稀れなるよし」と胸を張った(日出新聞、1895年4月14日)。白龍のたとえはこの大噴水を形容する定番の言い回しとなり、「大白龍の高く空を昇るの壮観」(日出新聞、1895年9月22日)、「白龍躍ると云つた東本願寺の大噴水」(日出新聞、1910年7月17日)としばしば登場する。噴水の偉観はうるさがたの眼鏡にもかなった。各地で公園の設計を手がける一方、噴水には批判的であった造園家の長岡安平もこの噴水には一目置いたようである。「噴水といふものにハ賛成しない方であるが東本願寺のハ模範とする丈けの値があると思ふ、池の水面から僅か一尺か二尺かの所から烟のやうに噴き出して居るが壮観である、自ら据え附けるなら彼れが可からう」と高く評価している(都新聞「諸国名園の話(九)」、1903年8月20日)。

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渥美契縁と東本願寺大噴水

 京都の市中に眺望をさえぎる高い建物がなかったおかげだろう、この大噴水は「二里余を隔てし所よりも尚明に見るを得たり」、約4キロ離れた場所からもはっきり見えたという(日出新聞、1895年4月17日)。さらには直線距離で7、8キロは離れた嵐山からこの大噴水が「明に見るべし」とも報じられている(『風俗画報』1895年6月18日号)。市街地から立ちのぼる白龍。京都の景観に与えたインパクトは相当なものだったのではないだろうか。

 もっとも、常時40メートルもの噴水を上げようとすれば、こんな問題に直面する。「風ある時は室町通りの人雨に濕ふ」(日出新聞、1895年4月6日)。水しぶきが風に流され、近くの通りを往く通行人は雨に降られたような有り様になった。結局、平時には水道の開閉弁を調節し、噴水の高さを60尺(約18メートル)程度に抑えることになった。しかし、せっかくの大噴水がもったいない。「東本願寺の噴泉は、十分登らせては烏丸通が雨に逢ふと云う、されどお祭りの間は思ひ切り騰げて欲しきものなり、責て風の無き日丈けなりとも、大坂には五色の火をもて照らせる噴水もあるものを大白龍の空に昇るの壮観、人々に見せたきなり」(日出新聞、1895年9月22日)。東本願寺もそうした声に応えたのだろう、特別な日にはしばしば盛大に噴かせたようだ。例えば1898年(明治31)4月、大法要の準備を伝える新聞記事は「大噴水は法要中最高百六十八尺まで騰らしめ」るとの予定を報じている(日出新聞、1898年4月14日)。また同年秋に皇太子が京都を訪れた時の新聞記事は、行啓を迎える市中でこのような準備が行われたとして、「二条離宮の御濠は数日前より大掃除全く終り本願寺の大噴水は最高百七十尺の高きに上り高きより落ちて露木桂の葉に香ばしく…辻々の路便所には凡て葭簀を以て之を蔽ひたり」(大阪毎日新聞、1898年10月13日)と伝えている。
 
 さて、少し時間を戻す。1897年(明治30)8月3日。土方宮内大臣らが見守る中、いよいよ両堂を水で包む、防火噴水大試験が行われた。午前8時に噴水池の噴水を止め、水が境内、両堂の水道管に回ると「大師堂北部唐破風、二重上層軒下、同下層軒下、北部火防土手、阿弥陀堂軒下、溝際等三十余ヶ所の放水口」から水が噴き出し、若干のトラブルはあったものの、「試験の成績は先づ好良の方なり」として成功を収めた(日出新聞、1897年8月4日)。翌年の大法要でも「上京法中諸講中門徒は未だ火防大噴水の実用を知らざるに依り本日正午より両堂を水にて包み噴水せしめ一同に参観せしむる由」として集まった大勢の信徒に一斉放水の実演を披露している(日出新聞、1898年4月27日)。「遠く望めば虹を現はし近く通れば驟雨をなし其附近は頓に秋涼の如く覚へしめ奇観いふべからず」というその光景は大喝采で迎えられた(同4月28日)。

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 そのわずか一ヶ月後、本当に火災が起きた。5月25日のことである。東本願寺裏手すぐの西洞院通北小路上る、鍛治屋町で最初の出火があり、その後、飛び火したのか両堂再建工事で余った木材等を収めた東本願寺の工作場の小屋からも出火した(日出新聞「七条の大火」、1898年5月27日)。火の手に備え「噴水を留め鉄管の水を貯はへ今にもあれ火移らバ一時に噴上げの水を騰らしめんと用意し」たが、幸い両堂の大事には至らなかった(東京朝日新聞「京都大火の詳報」、1898年5月29日)。

 こうした火災が起こらず、防火設備が実戦投入されないに越したことはない。しかし、それはそれでこの奇観が人目に触れないのはもったいないと思うのも人情であろう。こうして、来訪者をもてなす余興として定番化していったようだ。「東本願寺は其筋よりも内命ありたれば愈々行啓の上は先づ枳殻邸に御休憩を請ひ庭園の景色を御覧になり夫より大師、御影両堂の大噴水を噴出せしめて御覧に供し奉る予定にて既に準備整いたりと」(大阪毎日新聞、1898年10月16日)。これは皇太子が京都を訪れたときのもの。「淳宮高松宮両殿下は…御車を東本願寺に枉げさせられたるが同寺にては特に防火栓を引抜きて御覧に入れたるに幾千条の噴水は殿堂の周囲より逆まに天に注ぎ盛夏の空に一大光彩を描き美観云はん方なく非常に興がらせ給ひ(以下略)」(大阪毎日新聞、1915年7月24日)。これは1915年(大正4)、淳宮(のちの秩父宮)と高松宮が関西行啓の一環として京都を訪れたときのもの。また皇族ばかりではなく、例えば関西の婦人団体の見学会でも余興として披露されている。大阪毎日新聞社の企画で組織されたこの「婦人社会見学団」は、第1回の大阪中央郵便局、電信局、大阪瓦斯会社の見学を皮切りに、造幣局や製紙工場さまざまな場所を訪れている。その第13回見学を創立一周年記念会として見学団は京都を訪れた。二千人を越える参加者を集め一大イベントとなったこの見学会の一コマとしてこのように記録されている。
 「非常の際にのみ開かるゝ防火栓を一時にサッと放ちたれば邸内三十幾箇所より一斉に高く高く天に冲する大噴水、折柄小春日の麗かなる光に反映し空中に五彩の色を描き出せる、真に言語に絶する偉観にしてこれや浄品の地の栄光かとも思はしむ、殊に長き廊下の棟といふ棟より銀簾逆さまに落下する光景はさながらに是れ水晶宮にあるが如きなり、『まあ美しいこと』の感嘆の声一時に堂内に動揺めき渡る」(橋詰セミ郎編『大阪毎日新聞社主催 婦人社会見学写真帖』、1920年)。記録を探せば、おそらくもっと出てくるだろう。東本願寺の噴水は先駆的な防火設備であるとともに、噴水ショーのはしりとでもいうべきものであった。

NHK『美の壺』「噴水」再々放送(2014年8月3日)

 NHKのテレビ番組『美の壺』で放送された「噴水」の回が、Eテレ美の壺』セレクションとして、2012年の本放送、2013年の再放送に続いて再々放送!猛暑の夏を目に涼し気な噴水で乗り切りましょう。

NHK アート鑑賞マニュアル『美の壺http://www.nhk.or.jp/tsubo/

<放送予定>
Eテレ】 2014年8月3日(日)23:00~
 +スタッフ制作日記 http://www.nhk.or.jp/tsubo/diary/120829.html

浅草・ひょうたん池の噴水

 今年の元日、NHKで「1914 幻の東京~よみがえるモダン都市」という番組が放送された。100年前の街の風景と人々の暮らしを高精細の復元映像と再現ドラマで見せていくという番組で大変面白く、期待していた通り戦前の噴水も登場したのだが、これは惜しかった。登場したのは、浅草十二階こと凌雲閣(画面右端にそびえる塔)が見下ろす浅草のひょうたん池の噴水。

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 いわゆる絵になる風景ということだったのだろう、ひょうたん池から浅草十二階を撮った写真を使った絵葉書は数多く残っており、噴水も一緒に写り込んでいる。こうした本物の絵葉書と比べると、その違いは一目瞭然である。

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 実際の噴水はご覧のとおり、なにやら突起状のものがいくつも飛び出した形をしている。これは何の意匠なのか。文献で明確に確認できればよいのだが、思いのほか史料が見つからない。植物の葉にも見えることから、日比谷公園の心字池にあったオモダカの噴水(下記絵葉書)のようなものだったのかも知れない。

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 では、復元映像の噴水は何を元ネタにしたのだろうか。復元映像をよく見ると、噴水を下支えしている柱がとても特徴的なデザインをしている。これで思い浮かんだのが横浜の水道創設記念噴水塔である。明治時代には、横浜停車場の前にあった。現物が横浜水道記念館の敷地の一角に保存されている他、横浜の港の見える丘公園ではレプリカが現役の噴水として活躍している。この噴水塔の上下を切り取ると、復元映像の噴水とそっくりだと思うのだが、いかがだろう。

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辰の口勧工場の噴水

 松斎吟光の『辰之口勧工場庭中之図』(三枚続)という錦絵がある。1882年(明治15)6月に発行されたこの錦絵は「辰之口勧工場」の庭を画題としたもので、画面左の池に噴水が描かれている。明治時代の商業施設と噴水の関わりを知るため、まずはこの「辰之口勧工場」を訪れてみた。

 「辰之口(たつのくち)」は東京・永楽町の地名で、現在の丸の内一丁目付近に当たる。東京府の第一勧工場、通称辰の口勧工場は当地に設けられた物品陳列所を起源とする商業施設である。勧工場(かんこうば)は「工場」ではなく今で言うショッピングモールで、一つの建物にさまざまなテナントを入れ、種々の商品を陳列し販売する。勧工場は明治時代に各地で流行した。東京府が設けた辰の口勧工場の開業は1878年(明治11)1月20日。勧工場のはしりであるとされている。

 1878年(明治11)6月16日、東京府の勧業課が知事に宛て、「物品陳列所将来之軌模」、辰の口勧工場を将来的にどうするのか述べた草案を提出している(以下、引用は『東京市史稿』市街篇第61より転載)。開業から五ヶ月。前年の1877年(明治10)に行われた内国勧業博覧会の残品、出品したが売れ残った物品(当時の博覧会では出品物を売っていた)を辰の口勧工場で陳列・販売するとの方針が当たり、「漸次繁盛ノ景況ヲ来シ」たという。

 運営が軌道に乗りかかったこの時期、勧業課が提言した構想は海外の同種の施設を範として官設から民設へ、ゆくゆくは経営を民間に移すというものであった。その具体的なプラン、「民設ニ帰スルノ法案」には経営形態や資金繰と並び、「館内列品ノ粧飾ハ勿論、第一庭園ヲ美麗ニシ人ノ心目ヲ娯マシメ、休憩所其侘ノ便宜ヲ具シ一ノ快楽園ヲ作ルヲ要ス」、美麗な庭園や休憩所を備え「快楽園」を作ることが必要だと説かれている。勧業課では、民設に向けた施設整備の初期費用を8万円と積算し、うちに1万円をこうした庭園の施設整備、「庭園樹木石噴水池其他一切粧飾費」に充てるという見積を立てていた。

 ショッピングの合間に美しい庭園を逍遥し休憩所でくつろぐ。こうした発想は海外の見聞を通じもたらされたようだ。「民設ニ帰スルノ法案」の参考として米国紐育府「亜米利堅物品陳列所」、アメリカ・ニューヨークの「アメリカンフェーア」の見聞録が添えられている。「該府(注・ニューヨーク)ニ遊学セシ」敷村兼正の伝によれば、「夏時ニハ園中巧ニ瀑布噴水等ヲ設ケ清涼ナラシム。且園中ニ割烹亭、休憩所等ノ設置アリト云フ」。彼の地のフェアーには滝や噴水、レストランや休憩所が設けられていたという。

 さて、1880年(明治13)7月1日、東京府の方針通り「出品取扱及ヒ一切之経済共該府出品人一同之負担ニ付セラレシ候条」(東京府勧業課報告第十二号)、辰の口勧工場は民間経営となった。噴水の設置は民設移行後の1882年(明治15)7月頃実現している。当時辰の口勧工場では工芸見本館という新施設がオープン。工芸見本館の開館を報じる「郵便報知新聞」の記事は続けて「恰もよし同所庭園中に築きし噴水其工を竣り」、ちょうどよいことに庭園内の噴水も竣工したところだと伝えている(郵便報知新聞、明治15年7月18日)。

春木座の噴水

 明治維新は芝居の世界にも変化をもたらした。東京市中では1872年(明治5)の規制緩和政策により、翌年の1873年(明治6)新たな劇場の開場が相次いだ。春木座もこの年に当初奥田座として本郷春木町に開場した劇場で、1876年(明治9)地名を取り春木座と改名する。

 「暑中の観劇ハ余り気の乗らぬものなれバ(略)時炎熱といへど其割に暑さを覚へず噴水の設けもあり風入も佳けれバ左程見物に難義ならず(略)」(郵便報知新聞、明治12年7月23日)

 さて、これは春木座の夏の様子を報じた新聞記事である。「噴水の設けもあり」というところにまずは目がいってしまうが、暑中の観劇について「余り気の乗らぬもの」、「見物に難義」と評している点にも注目したい。見物客の気が乗らないのは、劇場が暑く芝居どころではないというところにあったようだ。噴水を設け、風の入りをよくしたというのはまさに炎熱対策に他ならない。この年の春木座の夏の興行については、次のような記事も報道されている。

 「春木座ハ暑中芝居に付き極廉価興行の由にて(略)」(郵便報知新聞、明治12年7月12日)。

 春木座は暑中の興行のため、料金を「極廉価」に設定したという。つまり、そうでもしなければ客足が遠のいてしまうということだろう。「余り気の乗らぬ」観客を劇場に呼び込むため、春木座があれやこれやと夏の暑さ対策に腐心する様子が伺える。これはひとり春木座だけの問題だったかというとそうではない。春木座に限らず他の劇場にとっても、夏の暑さは興行の成否を左右する頭の痛い課題であった。

 「新富座の芝居は来る十日まで日延のところ遽かの大暑にて不入になりたれば一昨日千秋楽に成たり」(東京曙新聞、明治12年7月8日)

 「喜昇座の芝居ハ明日頃初日になり升が極暑の時分狂言も涼しさふな浮木の亀山殊に屋上の風筒より空気を通わせ見物の炎暑を忘れて楽む様意を用ひて興行します」(郵便報知新聞、明治10年7月27日)

 また、昼間の炎暑を避け夜に興行しようにも照明と火災の問題があった。 
 「昔は蝋燭火であつたゝめに照明の不充分なのと、もう一つは火災の危険を慮つたので、劇場は日出から日没までの昼間興行に限られ、朝は午前六時からはじめて、午後四時に終るべき事を、法規によつて命令されて居た。実際に於ては遅れて夜の十時ごろまで演じた場合もあるけれど、夜間だけの興行という事は絶対に無かった」(伊原敏郎『明治演劇史』)
 昼間の興行に限られるとすれば、クーラーも扇風機もない時代、夏の興行が暑さとの闘いであったのは想像に難くない。

 1878年(明治11)8月、その後の劇界での夜間興行の嚆矢となる興行を新富座が行った。その外題は『舞台明治世夜劇』。「ぶたいあかるきじせいのよしばい」と読ませたようである。外題からして、夜なのに舞台が明るいという点を前面に出していたことからも夜の芝居が珍しいものであったことが伺える。この後夜間興行は「夜芝居」と称されるようになる。

 閑話休題。春木座以外の劇場にも噴水はあったのだろうか。

 「諸新聞にて評判の浜町の久松座の普請ハ大そう立派にて瓦斯をも引き左右の樹園へ三段の噴水をしかけ屋根の上へ運動場を拵へ桟舗へハ袋戸棚を附ると」(読売新聞、明治12年2月20日

 久松座は先に登場した喜昇座を改築した劇場で、1878年(明治12)8月に開場する。噴水の設置が改築計画に入っていたことを読売新聞が報じている。開場時の新聞各社の取材記事の中には噴水がどうなったのか発見できなかったが、1922年(大正11)に出版された田村成義の『続続歌舞伎年代記』は、開業時の久松座の様子について「座の左右へ運動場を設け是へ樹木を植つけ空気の流通を良くし噴水を設け瓦斯を引き(略)」と記している。50年近く経った後の記述ではあるが、劇界の当事者として活躍した大立者の筆であり、久松座に噴水があった可能性は高いだろう。

 また、久松座が1879年(明治13)2月に焼失した後、復興・改名し1884年(明治18)1月に開場した千歳座を描いた錦絵、井上安治の『東京劇場千歳座之景』には劇場の脇に設けられた庭に噴水が描かれている。

 時代が下ってからの記録としては、「今十日開場の同座(注:宮戸座)(略)時節柄なりとて土間にハ噴水を拵へ東西の運動場にハ顔洗場を設けたりと」(東京朝日新聞明治32年8月10日)といったものがある。

 噴水は明治時代の夏の芝居見物を盛り上げた影の功労者であったといえよう。