辰の口勧工場の噴水

 松斎吟光の『辰之口勧工場庭中之図』(三枚続)という錦絵がある。1882年(明治15)6月に発行されたこの錦絵は「辰之口勧工場」の庭を画題としたもので、画面左の池に噴水が描かれている。明治時代の商業施設と噴水の関わりを知るため、まずはこの「辰之口勧工場」を訪れてみた。

 「辰之口(たつのくち)」は東京・永楽町の地名で、現在の丸の内一丁目付近に当たる。東京府の第一勧工場、通称辰の口勧工場は当地に設けられた物品陳列所を起源とする商業施設である。勧工場(かんこうば)は「工場」ではなく今で言うショッピングモールで、一つの建物にさまざまなテナントを入れ、種々の商品を陳列し販売する。勧工場は明治時代に各地で流行した。東京府が設けた辰の口勧工場の開業は1878年(明治11)1月20日。勧工場のはしりであるとされている。

 1878年(明治11)6月16日、東京府の勧業課が知事に宛て、「物品陳列所将来之軌模」、辰の口勧工場を将来的にどうするのか述べた草案を提出している(以下、引用は『東京市史稿』市街篇第61より転載)。開業から五ヶ月。前年の1877年(明治10)に行われた内国勧業博覧会の残品、出品したが売れ残った物品(当時の博覧会では出品物を売っていた)を辰の口勧工場で陳列・販売するとの方針が当たり、「漸次繁盛ノ景況ヲ来シ」たという。

 運営が軌道に乗りかかったこの時期、勧業課が提言した構想は海外の同種の施設を範として官設から民設へ、ゆくゆくは経営を民間に移すというものであった。その具体的なプラン、「民設ニ帰スルノ法案」には経営形態や資金繰と並び、「館内列品ノ粧飾ハ勿論、第一庭園ヲ美麗ニシ人ノ心目ヲ娯マシメ、休憩所其侘ノ便宜ヲ具シ一ノ快楽園ヲ作ルヲ要ス」、美麗な庭園や休憩所を備え「快楽園」を作ることが必要だと説かれている。勧業課では、民設に向けた施設整備の初期費用を8万円と積算し、うちに1万円をこうした庭園の施設整備、「庭園樹木石噴水池其他一切粧飾費」に充てるという見積を立てていた。

 ショッピングの合間に美しい庭園を逍遥し休憩所でくつろぐ。こうした発想は海外の見聞を通じもたらされたようだ。「民設ニ帰スルノ法案」の参考として米国紐育府「亜米利堅物品陳列所」、アメリカ・ニューヨークの「アメリカンフェーア」の見聞録が添えられている。「該府(注・ニューヨーク)ニ遊学セシ」敷村兼正の伝によれば、「夏時ニハ園中巧ニ瀑布噴水等ヲ設ケ清涼ナラシム。且園中ニ割烹亭、休憩所等ノ設置アリト云フ」。彼の地のフェアーには滝や噴水、レストランや休憩所が設けられていたという。

 さて、1880年(明治13)7月1日、東京府の方針通り「出品取扱及ヒ一切之経済共該府出品人一同之負担ニ付セラレシ候条」(東京府勧業課報告第十二号)、辰の口勧工場は民間経営となった。噴水の設置は民設移行後の1882年(明治15)7月頃実現している。当時辰の口勧工場では工芸見本館という新施設がオープン。工芸見本館の開館を報じる「郵便報知新聞」の記事は続けて「恰もよし同所庭園中に築きし噴水其工を竣り」、ちょうどよいことに庭園内の噴水も竣工したところだと伝えている(郵便報知新聞、明治15年7月18日)。