春木座の噴水

 明治維新は芝居の世界にも変化をもたらした。東京市中では1872年(明治5)の規制緩和政策により、翌年の1873年(明治6)新たな劇場の開場が相次いだ。春木座もこの年に当初奥田座として本郷春木町に開場した劇場で、1876年(明治9)地名を取り春木座と改名する。

 「暑中の観劇ハ余り気の乗らぬものなれバ(略)時炎熱といへど其割に暑さを覚へず噴水の設けもあり風入も佳けれバ左程見物に難義ならず(略)」(郵便報知新聞、明治12年7月23日)

 さて、これは春木座の夏の様子を報じた新聞記事である。「噴水の設けもあり」というところにまずは目がいってしまうが、暑中の観劇について「余り気の乗らぬもの」、「見物に難義」と評している点にも注目したい。見物客の気が乗らないのは、劇場が暑く芝居どころではないというところにあったようだ。噴水を設け、風の入りをよくしたというのはまさに炎熱対策に他ならない。この年の春木座の夏の興行については、次のような記事も報道されている。

 「春木座ハ暑中芝居に付き極廉価興行の由にて(略)」(郵便報知新聞、明治12年7月12日)。

 春木座は暑中の興行のため、料金を「極廉価」に設定したという。つまり、そうでもしなければ客足が遠のいてしまうということだろう。「余り気の乗らぬ」観客を劇場に呼び込むため、春木座があれやこれやと夏の暑さ対策に腐心する様子が伺える。これはひとり春木座だけの問題だったかというとそうではない。春木座に限らず他の劇場にとっても、夏の暑さは興行の成否を左右する頭の痛い課題であった。

 「新富座の芝居は来る十日まで日延のところ遽かの大暑にて不入になりたれば一昨日千秋楽に成たり」(東京曙新聞、明治12年7月8日)

 「喜昇座の芝居ハ明日頃初日になり升が極暑の時分狂言も涼しさふな浮木の亀山殊に屋上の風筒より空気を通わせ見物の炎暑を忘れて楽む様意を用ひて興行します」(郵便報知新聞、明治10年7月27日)

 また、昼間の炎暑を避け夜に興行しようにも照明と火災の問題があった。 
 「昔は蝋燭火であつたゝめに照明の不充分なのと、もう一つは火災の危険を慮つたので、劇場は日出から日没までの昼間興行に限られ、朝は午前六時からはじめて、午後四時に終るべき事を、法規によつて命令されて居た。実際に於ては遅れて夜の十時ごろまで演じた場合もあるけれど、夜間だけの興行という事は絶対に無かった」(伊原敏郎『明治演劇史』)
 昼間の興行に限られるとすれば、クーラーも扇風機もない時代、夏の興行が暑さとの闘いであったのは想像に難くない。

 1878年(明治11)8月、その後の劇界での夜間興行の嚆矢となる興行を新富座が行った。その外題は『舞台明治世夜劇』。「ぶたいあかるきじせいのよしばい」と読ませたようである。外題からして、夜なのに舞台が明るいという点を前面に出していたことからも夜の芝居が珍しいものであったことが伺える。この後夜間興行は「夜芝居」と称されるようになる。

 閑話休題。春木座以外の劇場にも噴水はあったのだろうか。

 「諸新聞にて評判の浜町の久松座の普請ハ大そう立派にて瓦斯をも引き左右の樹園へ三段の噴水をしかけ屋根の上へ運動場を拵へ桟舗へハ袋戸棚を附ると」(読売新聞、明治12年2月20日

 久松座は先に登場した喜昇座を改築した劇場で、1878年(明治12)8月に開場する。噴水の設置が改築計画に入っていたことを読売新聞が報じている。開場時の新聞各社の取材記事の中には噴水がどうなったのか発見できなかったが、1922年(大正11)に出版された田村成義の『続続歌舞伎年代記』は、開業時の久松座の様子について「座の左右へ運動場を設け是へ樹木を植つけ空気の流通を良くし噴水を設け瓦斯を引き(略)」と記している。50年近く経った後の記述ではあるが、劇界の当事者として活躍した大立者の筆であり、久松座に噴水があった可能性は高いだろう。

 また、久松座が1879年(明治13)2月に焼失した後、復興・改名し1884年(明治18)1月に開場した千歳座を描いた錦絵、井上安治の『東京劇場千歳座之景』には劇場の脇に設けられた庭に噴水が描かれている。

 時代が下ってからの記録としては、「今十日開場の同座(注:宮戸座)(略)時節柄なりとて土間にハ噴水を拵へ東西の運動場にハ顔洗場を設けたりと」(東京朝日新聞明治32年8月10日)といったものがある。

 噴水は明治時代の夏の芝居見物を盛り上げた影の功労者であったといえよう。