此大噴水ハ藤…

 ※本記事は「カテイ石鹸大噴水塔」の続きです。


 噴水塔の脇へ視線を転じてみよう。池中にはなにやら文字の書かれた丸い看板が並んでいる。途中で見切れてしまっているが、いったい何と書かれていたのだろうか。
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 少し引いて見ると全部で19文字分の――1文字は電燈で隠れている――看板を確認することができる。すでに見えている文字を加味すると、「此大噴水ハ藤●●●●●●●●●●●●●」という文章になる。文章の3分の1は埋まったが、虫眼鏡と推理で空欄をすべてを埋めるには、手ごわい文字がいささか多すぎる。虫眼鏡は横に置き、さっそく『平和記念東京博覧会事務報告』を調べてみると、この19文字の看板についてもきちんと記録が残されていた。官製の記録というものはよくしたものである。
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 「第二会場動力館前ヨリ池ノ中央ノ噴水二至ル」この看板、直径三尺の丸形の表示板を使い、丸の中にはこう書かれていたという。


   「此大噴水ハ藤田鑛業酉島製作品ポンプ使用」


 改めてカテイ石鹸大噴水塔の項目を見返すと、たしかに「動力ハ動力館出品ノ酉島製作所ポンプヲ利用」とある。つまり、この看板が横にあることで、噴水塔は中山太陽堂の化粧品の広告になっていただけではなく、「酉島製作所」のポンプの広告にもなっていたのである。


 「酉島製作所」という名前を手がかりにもう少し調べてみると、さらに面白い名前が登場する。


 大阪市此花区酉島町で産声をあげる

 京都の奥村電機商会(原文ママ酉島製作所のウェブサイトでは「奥村電気商会」と表記――筆者注)において、斯界に率先してポンプ設計製作に従事していた技術者および技能者の一団をもって、大正8年8月、大阪市西区(現此花区)酉島町73番地に、藤田組傘下藤田鉱業㈱の一部門、ポンプ、水車の専門製作工場として酉島製作所が創設された。(水車の生産は大正11年末中止)
 所長(当初主務)は奥村電機商会の理事、副工場長の職にあった竹尾秋助で、同大阪支店長の青柳秀代、技師平尾喜蔵らとともに入社参画し、従業員は所長以下30余名であった。
 最初に製作されたポンプ(製作番号第1番)は藤田鉱業小百鉱山(栃木県)納入の口径4インチ(約100㎜)7段タービンポンプであった。(『酉島60年のあゆみ』)


 「奥村電気商会」である。


 「古都における工業振興の先駆けとなった機械メーカー」で「全国的に有名であった水力発電装置」などを製造販売していた奥村電気商会は、大正9年(1920)頃から大正14年(1925)頃にかけて京都に「京都パラダイス」という遊園地を経営していたという。「詳細は不明だが、往時の観光ガイドブックなどをみると、『大瀑布』と『飛行塔』が子供たちの人気のまとであったことが記されている」(橋爪紳也『日本の遊園地』)。


 京都パラダイスにあったという「大瀑布」には奥村電気商会製のポンプが使われていたのではないだろうか。京都パラダイスの開業と酉島製作所の創業の時期は前後するが、水力機械を使ってこうした「大瀑布」あるいは「大噴水」を造るという発想や技術を酉島製作所の技術者たちが持っていても不思議ではない。おそらく、ともに関西で創業し関西を基盤とするという地縁もあって結びついた、酉島製作所の技術と中山太陽堂の広告戦略からカテイ石鹸大噴水塔は生まれたのである。


 ポンプメーカーと大瀑布や大噴水の結びつきはこれだけにとどまらない。


 大阪の遊園地、「新世界ルナパーク」や「楽天地」の大瀑布を手がけた松田重次郎(マツダの創業者)が明治42年(1909)に興したポンプメーカー、松田式喞筒合資会社は明治45/大正元年(1912)の夏、自社の「松田式タービンポンプ」を使い、大阪の浜寺海水浴場でなんと海上に大噴水を出現させている。ルナパークでは「その実この瀧の水が臭くて鼻持がならない」と散々な新聞記事も書かれたが、海上大噴水は好評を博したようである。


 平和記念東京博覧会では他に、第一会場の噴水池で荏原製作所の「ゐのくち式渦巻喞筒」が使用されている。荏原製作所大正元年(1912)に「ゐのくち式機械事務所」として創業したポンプメーカーである。


 このように、明治末期から大正時代にかけて国産ポンプの製造を担うメーカーが続々と登場したことで噴水のバリエーションは広がり、本格的に機械仕掛けの時代へと進んでいく。