二代目大阪駅からお馴染みの「噴水小僧」を展示します
下の写真は6年前、同館で行われた「鉄道とアート」に登場したときの「噴水小僧」。長らく大阪駅コンコースの噴水池にあったが、大阪駅の改修工事に伴って2004(平成15)年に撤去された。この像は1901(明治34)年、二代目の大阪駅ができたときに作られた由緒あるもので、1963(昭和38)年には準鉄道記念物に指定。そうした縁で、JR西日本が運営する交通科学博物館にやってきたという訳だ。
大阪駅はこの5月4日にリニューアルオープンしたが、残念ながら「噴水小僧」が新生大阪駅に戻ることはなかった(朝日新聞「『噴水小僧』『旅立ちの鐘』 新装大阪駅に居場所なく」http://www.asahi.com/kansai/travel/news/OSK201104300021.html)。今回の展示は、こうした声を受けたものだろう。
2006年11月23日撮影
(同)
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「噴水小僧」の制作者は、工部美術学校出身の菊地鋳太郎。二代目の大阪駅は1901(明治34)年7月1日に開業するが、その数ヶ月前、雑誌『太陽』第7巻第3号で吉岡芳陵が「噴水小僧」を取り上げている。
「大阪梅田停車場の噴水器といふは是亦本邦停車場の装置としては未だ例なかりし意匠を以て、并びに美術的手腕を以て造られたもので、塑造者は大倉喜八郎氏や伊東海軍中将や其外の銅像を造ッた菊池鋳太郎氏である、停車場車寄の左右に一とつ宛据へ附けたので。一個の童子が岩の上に立ち、両手にて貝状の水盤を捧げ、其上に在る龍の口より水の噴き出だすを受けて居る趣向にて、岩の上には一ニの遊亀を見せたものである、人物は実物より少し大形にして、其総高さ五尺、東京美術学校鋳金科の平塚某が苦心の鋳造に成れり仲々の壮観である」(吉岡芳陵「噴水と美術的製作」)
1918(大正7)年4月発行の『美術新報』156号に菊地鋳太郎が寄せた「工部美術学校時代」という文章の中にも、「私は大阪の梅田駅の子供の噴水左右二ヶ…などを作つたのであつた」と記されている。
今に伝わるのは一体だけだが、交通科学博物館の図書館で見せて頂いた、表紙に「皇紀二五九七年」とある大阪駅の写真帖には「車寄ノ噴水小僧」として、失われた相方の姿が収められている。吉岡芳陵の「噴水と美術的製作」で「両手にて貝状の水盤を捧げ、其上に在る龍の口より水の噴き出だすを受けて居る趣向」と描写されているのは、こちらの小僧である。