芦原(あわら)温泉の噴水

 ゴールデンウィークの休暇を使い、福井県芦原温泉を訪れた。芦原温泉福井駅からえちぜん鉄道で40分。「関西の奥座敷」とも呼ばれる、福井を代表する温泉地だ。1883(明治16)年に温泉が出たのをきっかけに生まれた温泉地で、古い温泉の多い日本にあっては歴史の新しい温泉といえる。
 
 芦原温泉は明治・大正・昭和を通じ温泉街として発展した。温泉宿が立ち並ぶばかりでなく、回り舞台のある大きな劇場や瀟洒な洋館造の療養所などもあるイカラな街であった。当時の芦原温泉がいかに先進的だったか物語るエピソードのひとつが水道だ。
 
 芦原温泉に水道ができたのは1926(大正15)年。県内の中心都市である福井市の水道開設が1924(大正13)年。それからわずか数年しか離れていない。水道開設も早かったのだ。1926(大正15)年3月9日に通水し、4月には水道使用料金の徴収が始まったという。そして噴水が作られることになる。おそらく、水道通水を記念して計画されたものだったのだろう。
 
 温泉地はいくつかの地区に分かれ、「その当時、田中温泉場には広場があり、同地区の人びとが街頭の美化にと千余円を出しあって噴水をつくり、それは温泉の一名所になったのである」(『開湯芦原一〇〇年史』、1984年)。
 
 現在芦原温泉を訪れてもこの噴水はすでにない。戦後の1948(昭和23)年の福井大震災、1956(昭和31)年の芦原大火で、木造中心の温泉街の建物のほとんどが失われ、その後の道路拡張や区画整理町並が一変したためだ。
 
 しかし、噴水のことをよく知る地元の方にお会いすることができた。お話を伺ったのは、芦原温泉で土産物屋、丸の内おみやげ百貨を営む竹内萬亀子(まきこ)さん、竹内正文さんご姉弟。お二人が昔住んでいた家の裏に噴水の広場はあったという。
また、『開湯芦原一〇〇年史』に水道敷設に尽力した人物として登場する竹内九右衛門はまさにお二人のおじいさんにあたる人物だった。お二人がその目で見、その耳で聞き、語って下さった芦原温泉の歴史、竹内家の歴史、地元では「竹内のおやっさん」として慕われたという竹内九右衛門の話はあまりに面白く、あっという間に三時間が経ってしまった。
 
 
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 鶴の像が高々と水を噴き上げるこの噴水池は、町の子供たちの格好の遊び場となった。池には亀や蛙もいた。正文さんによれば、池のへりから岩に飛び移って鶴によじのぼる悪ガキもいたそうだ。町のお祭りのときには池を囲んで屋台や植木市が出て大いに賑わったという。絵葉書に写る、和風の木造三階建ての建物は温泉宿、洋館は療養所である。
 
 池は失われてしまったが、この鶴の像は地元の田中温泉区民会館で大事に保管されている。金属製の噴水器には戦時中の金属供出で失われてしまったという話がつきもの。現に温泉街にあった政治家の銅像は回収されてしまったという。戦前の金属製の噴水器がこうして完全な姿で残っているのはとても貴重だ。震災や大火にも見舞われたとなればなおさらだ。傷みが激しく、今は人知れず床の間で静かな余生を過ごしているが、いつかまた芦原温泉のシンボルとして活躍してほしい。
 
 
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 さて、芦原温泉の噴水を撮った絵葉書には、鶴が写っていない絵葉書もある当初から鶴を置くアイディアだったのか、鶴はいつ置かれたのか。謎を解くヒントはなんと、萬亀子さんの名前にまつわるエピソードの中にあった。
 
 「なんで私の名前に亀という字を使ったのか母に聞いたことがある。そのとき母は、『町に鶴が来たから鶴子という名前も考えていたのよ』と教えてくれた。どっちにしてもおめでたい名前なんだけど」と笑いながら教えて下さった。
 
 「町に鶴が来たから」。萬亀子さんは1930(昭和5)年生まれ。当初から鶴があったとすれば、「町に鶴が来た」とはおそらく言わないだろう。萬亀子さんが生まれた1930(昭和5)年、もしくは前年頃、鶴が乗せられたのではないだろうか。今ある材料ではこれ以上の推理も断言もできないが、現地を訪ねるとこんな瞬間があるからやめられないのだ。お楽しみはこれからだ。