鶴は千年、亀は万年④

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 さて、その亀の噴水はどのようなものだったのだろう。


 当時の新聞記事によれば「又当地行在処の御庭に当るところへ鶴の形に池を掘り該地へ唐金製の大亀を置き北隣なる勧業課附属の製糸場の溜池より水を引き該亀の口より水を吐かせ其水を行在処御風呂場へ引く積りなりとして其亀は来る廿一日まで出来上りの見込を以て銅町なる川邊金次郎が一切引き受けしと云う」(山形新聞明治14年9月13日)。また、河合孝朔『明治天皇御巡幸 山形市・南村山郡・御遺徳誌』(1932年)は「中庭に池を鑿ちその周囲に竹木をあしらえ、池中に奇岩径石を畳み、巌上に青銅の巨鼈を据え、鼈の口よる噴水せしめて庭園に美観を添え………」としている。


 行在処/所(あんざいしょ)とは天皇の宿所のことである。奉迎のため新築された山形行在所(場所は現在の山形市役所付近)で明治天皇を出迎えた大亀はその後、明治17年師範学校の寄宿舎建設にあたり行在所の建物が国分寺薬師堂の東方(千歳公園)へ移されたときに一緒に場所を移ったという。しかし、千歳公園が終の棲家となることなく、千歳公園へ移った後もこの大亀はさらに流転の歴史をたどる。


 『山形市史』によれば、明治22年、旧行在所の建物が沢渡吉兵衛氏に払い下げられたときに大亀は沢渡家の所有となり(*)、長く七日町千歳館内に置かれていたという。千歳館は明治9年に(初代)沢渡吉兵衛氏が創業し今も続く老舗の料亭である。今回見つけた絵葉書は、大亀がこの千歳館に移されてからの様子を収めたものであろう。大亀の全身像(**)が見えないのは残念であるが、明治14年の奉迎のときと同じように岩の上に置かれており、明治天皇が目にしたであろう光景を追体験することができる。


 千歳公園から千歳館へいつ移されたのか、『山形市史』の記述では定かではない。しかし、前出の山形日報の記事(明治41年9月17日)は行啓記念碑の詳細に続けて「因みに亀は目下千歳公園内亀松閣の池中にある亀はそれにて此亀を此園に移したるを以て亀松閣(***)と名つけたるものなりという」と結んでいる。とすれば、明治41年9月にはまだ千歳公園にあり、千歳公園には鶴の噴水と亀の噴水が同居していた可能性が高い。東宮を出迎えた鶴の噴水と明治天皇を出迎えた亀の噴水。鶴が噴水のデザインとして選ばれた背景には、単純におめでたいシンボルというだけではなく、この亀の噴水の存在があったのかも知れない。



(*)明治22年山形新聞によれば、6月10日、山形県(第二部会計課)は亀松閣の建物と付属品を入札にかけており、18日に入札が行われた結果、建物は「石川清信」、付属品は「森谷敬喜」なる人物が落札したことを伝えている。その後どのような経緯で沢渡吉兵衛氏の手に渡ったのか、現時点では不明である。

(**)『山形市史』は「青銅製の蓑亀」と表記している。蓑亀とは「甲らに藻類がついて、蓑をつけているように見えるカメ。淡水産・海水産のどちらにも見られ、古来めでたいものとされる」(新明解国語辞典・第五版)。絵葉書に写っていない部分には、ふさふさとひげのように藻が伸びた、千歳飴(!)の袋に描かれているような亀の姿があったと思われる。まさに千歳公園、千歳館という名にふさわしい。

(***)亀松閣も今に続く老舗の料亭である。創業は、旧行在所の建物が払い下げられた明治22年


[参考文献]
・『山形市史』下巻(1975年)
・『明治天皇御巡幸 山形市・南村山郡・御遺徳誌』(1932年)