カテイ石鹸大噴水塔

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 大正11年(1922)、東京の上野公園を舞台に催された「平和記念東京博覧会」。第二会場となった不忍池には、ひときわ目を引く2つの巨大な噴水塔があった。ひとつは、つちやたび(現在のムーンスター)の「水晶塔」。四面ガラス張り七層の塔で、最上部から噴き出した水が塔を包み、内部に設置された無数の電球によって塔の色が変化するという壮大な仕掛けが施されていた。


 もうひとつが、今回取り上げる中山太陽堂が設置した「カテイ石鹸大噴水塔」である。


 中山太陽堂、現在のクラブコスメチックスの創業は明治36年(1903)。日本の化粧品業界の草分けである。神戸で生まれた洋品雑貨と化粧品の卸商は、明治39年(1906)発売の「クラブ洗粉」を皮切りに化粧品製造業へ転じ、「クラブ白粉」「クラブ歯磨」など歴史に名を残す数々の商品を世に送り出してきた。「クラブ」は、「口にしやすく、耳にモダンな響きを与える」として選ばれた、中山太陽堂を代表するブランド名である。


 「カテイ石鹸」は平和記念東京博覧会の2年前、大正9年(1920)に売り出した初の自社製石鹸で、積極的にヨーロッパの技師を招聘し、ノウハウの蓄積を進めてきた中山太陽堂の石鹸製造技術の結晶ともいうべき商品であった。ちなみに、「カテイ石鹸」の発売当時、「クラブ石鹸」という名前はすでに他社の登録商標となっており、石鹸に限っては「クラブ」ではなく「カテイ」ブランドが採用されたという。


 観月橋を行きかう人々の目に涼を運んだであろう八角形の大噴水塔は、新聞広告に「四面に色鮮やかな文字を見れば、曰くカテイ石鹸、曰くクラブ洗粉、曰くクラブ歯磨、クラブ白粉」(東京朝日新聞大正11年4月11日)とあるように、自社ブランドを大々的に宣伝するための広告塔でもあった。


 『平和記念東京博覧会事務報告』の広告物一覧には、各社が競って設置した大小さまざまな広告物が報告されている。『事務報告』によれば、会場に広告物を出したいという希望者は相当数に上り、敷地が足りず、出願手続を行っても不許可になったものがあったという。


 噴水塔を設置した企業は3社あった。「カテイ石鹸大噴水塔」の中山太陽堂、「水晶塔」のつちやたびと長瀬商会(現在の花王)である。長瀬商会は、第一会場に「中央噴水塔の頂上に大電気時計一個其の下部四面に各三個宛の小時計を装置し噴水塔は方六尺の硝子製水槽に金魚を遊泳せしむ」という電気時計塔を出展している。建設にかかる費用はもちろんのこと、運転費用も決して安くはない噴水塔を手がけたのが、化粧品メーカーと足袋メーカーであったことは興味深い。

 
 当時、化粧品メーカーと足袋メーカーはともに、新聞や各地の博覧会を舞台に連日広告合戦を繰り広げていた。足袋メーカーでいえば、平和記念東京博覧会が始まったこの年の3月、私が調べたある新聞ではつちやたびと福助足袋を筆頭に、わずかひと月の間につちやたびは12回、福助足袋は10回の広告を掲載し、その他の足袋メーカーを合わせると足袋の広告がないのはわずか9日間だけという状態であった。


 カテイ石鹸大噴水塔は、化粧品メーカーの広告合戦と噴水の出会いが生んだ傑作であった。

 
 最後に、大噴水塔の夜の姿を伝えた東京朝日新聞の一節を引き、続いては噴水塔の脇に目を転じて「此 大 噴 水 ハ 藤 …」という池中の看板から新しい噴水話を始めよう。


 「噴水の奔騰高さ百五十尺に上り、殊に夜間は電気応用の大仕掛に五色の光を投げて光彩陸離、只見る満天の飛沫は五彩に輝き、爛として虹と流れ燦として火花と散る、美観壮観実に言語を絶した光景で、これは入場者にとって見落とさんと欲しても見落とすことの出来ないものであります」


【参考文献】
 ・株式会社クラブコスメチックス『百花繚乱 クラブコスメチックス百年史』(2003)
 ・東京府編『平和記念東京博覧会事務報告』上巻(1924)