凱旋紀念博覧会の噴水(そのニ)

 思わぬ発見で中断した名古屋凱旋紀念博覧会(明治39年)の噴水の記事を再開。まずはおさらいから。
 
 名古屋凱旋紀念博覧会は、日露戦争での勝利を祝して開かれた博覧会である。開会は3月20日。会場整備に手間取り、予定より五日遅れでの開会となった。 会場を彩る呼び物とされた噴水も御多分に漏れず、工期が順調に遅れてゆく。
土台を人造石とし之に常滑製の天女の立像を設け其手始め数ヶ所により噴水せしむるものにして高さ二間半噴水の程度は四間とす (「扶桑新聞」3月6日付)
成工までに尚十数日を要す可し (同3月19日付)
土台丈成工したるも上部陶器作りの噴水口未だ成工せざるやにて其儘となり居れり (同3月26日付」)
 土台は完成するが、肝心の天女像は姿を見せない(ちなみに、この記事のおかげで天女像が「陶器作り」、すなわち常滑焼であることがわかる)。土台だけの噴水はそのまま4月を迎え、とうとう土台の上には別のものが載せられてしまう。閉会後、扶桑新聞が読者に記念品として配布した絵葉書(1枚目)には確かに天女像らしきものが写っているが、もう一枚の絵葉書には天女像があるべき場所に、奇妙な造形物が納まっている。
 
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噴水の土台に注目
 
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 この奇妙な造形物は何だろう。「頂の噴水口には工藝の神像据えらるヽ旨聞きたれど」。4月14日に会場を訪れた筆名「青眼子」氏が書き残してくれた「凱旋紀念博覧会概評(一)」という記事(4月16日付「扶桑新聞」)がその正体を伝えている。土台の上に置かれたのは、「杉の葉を砲弾型にしたるもの」に「金銀赤青の玻璃玉を幾多ぶら下げたるもの」だったという。
 
 「砲弾」が意図するところは分かりやすい。「砲弾」と聞かなければ、杉の葉を束ねたものに金銀赤青のガラス玉をぶら下げた姿はまるで出来損ないのクリスマスツリーだが、喚起しようとしたイメージは「戦争」である。名古屋の覚王山日泰寺の近くには、同じく頂に砲弾を載せた巨大な記念碑が現存する。
 
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 こちらは日露戦争以前、「第一軍戦死者記念碑」という日清戦争の戦死者に捧げられた記念碑である。祝勝と慰霊という違いはあるが、ともに「砲弾」に「戦争」のイメージを仮託する。
 
 「杉の葉」は明治・大正期、さまざまな祝いの場で、門をはじめ、建物の一部を飾り立てる材料として頻繁に使われていたことが確認されている(橋爪紳也氏の『祝祭の〈帝国〉』の第一章「杉の葉アーチ」は、そのものずばりを論じている)。杉の葉で覆われた門は「緑門」と表記されることがあり、名古屋凱旋紀念博覧会でも「檜皮もて作られたる第一緑門」(緑門に「あーち」とルビ)があったことに「青眼子」氏が同じ記事で触れている。「杉の葉を砲弾型にしたるもの」は、「戦争」の勝利を「祝う」という博覧会のお題目を体現した造形物であったと言える。
 
 しかし、「其神像は何時据えらるヽにや」。