戦争・天皇・水道―祝う噴水(1)

華やかで、非日常的な空間を簡単に作り出せる噴水は、祝祭の「おめでたい」気分を盛りたてる装置の一つとしてしばしば登場する。例えば、戦勝を祝う式典で。例えば、皇室の御慶事を祝う街角で。セレモニーが終われば取り払われる仮設の工作物として作られることもあれば、半永久的なモニュメントとして作られることもあった。水道の完成を祝うセレモニーを飾った数々の噴水は、会場に華を添える演出装置であるとともに、水道事業の成功を「あふれ出る清潔な水」として視覚化してみせるモニュメントでもあった。
 
まずは戦勝を祝う式典の会場から二つ。一九〇五(明治三十八年)、ロシアのバルチック艦隊を破った五月二十七日・二十八日の日本海海戦の勝利に沸く東京ではさっそく六月一日、東京市主催の祝賀会が行われた。会場となったのは日比谷公園。「飾物としては公園西北方の芝生地に水道課の手に成れる大噴水あり総て水道用材を以て造なされ、口径尺余、長さ丈余の鉄管を中央に装置して噴水せしめ、而して其周囲には一間毎に共用栓水柱を配置し、二寸パイプを土台に見せて垣を繞らし、一見作付けの噴水と見せたるは中々手際のものなり」(『風俗画報臨時増刊征露図会第二十四編』六月二十五日発行)。六月二日付の『都新聞』によれば「燈籠形」の噴水器だったという。世に「一式飾り」と呼ばれる、陶器なら陶器だけ、ある一種類の道具(一式)を使って何かを見立てる造り物と同じように、水道管など「水道用材」一式で「燈籠」に見立てたのだろうか。三日の急ごしらえながら、なかなか凝った噴水だったようだ。
 
「一見作付けの…と見せたるは中々の手際のものなり」。こうした仮設の造形物といえば、各地で作られた「凱旋門」がある。古代ローマに起源があるという凱旋門は、戦勝記念や凱旋軍の歓迎のために主要な街路などに演出装置として建てられた門で、絵葉書は同じ年の十二月に落成した東京上野の凱旋門。石造に見えるが、これがわずかひと月足らずの突貫工事で組み上げたハリボテだというから驚く。「大体木造なるも白布を張詰めし上漆喰塗りとなす」(『東京朝日新聞』十一月二十六日付)。門に取り付けられた各種の像は漆喰細工の職人が手がけた。「私は、長八さんの愛弟子の今泉善吉の弟子で(中略)日露戦争の時の下谷凱旋門は、上の方は師匠、下の陸海軍々人と、内側の彫刻は私がやりました」。結城素明『伊豆長八』(一九三八年)の中で、漆喰細工の名人と称えられた左官職人、伊豆長八の孫弟子に当たる中西由造はこう語る。また、「京都の博覧会の時には、私も一緒に行つて、師匠は登り龍、降り龍を作りました」という。「京都の博覧会」とは十年前、一八九五年(明治二十八年)四月一日に開幕した第四回内国勧業博覧会。この「登り龍、降り龍」は噴水になっており、「二龍玉を争うの象(かたち)にて、一龍は赤球を攫みて天を仰ぎ、一龍は頭を擡げて下より之を睨めるの状を為し、赤球には電燈を点ずるの仕掛ありて、其噴水は三間余の高さに登ると云ふ、漆喰を以て鋳造物(いもの)に模したる、極めて精巧のもの」だったという(『大阪毎日新聞』四月二日付)。明治噴水史と左官職人の関わりを知る一つのエピソードとして書き留めておきたい。
 
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「大山大正歓迎当日上野凱旋門
 
二つ目の噴水。くだんの「京都の博覧会」、第四回内国勧業博覧会の開幕から二ヶ月後の六月、大阪中之島で行われた日清戦争の凱旋祝賀会の会場に巨大な噴水が登場する(第四回内国勧業博覧会日清戦争の最中に行われた)。「台石及び周囲の泉池等工事粗落成したるに付一昨日噴水の試験をなしたるに其結果好く噴水の高さ凡十五尺に達したり然れば明七日に行ふ凱旋祝賀会には無論噴水し得らるるも其水勢激しくて参会人の衣服を濕すの虞あるより当日は噴水せしめざる由なるが盛式の際にもあれば思ひ切つて噴水せしめては如何」(『大阪朝日新聞』六月六日付)。当初、祝賀会当日は噴水させないという予定であった。水の勢いがあまりに強く、参加者の服を濡らしてしまうことが懸念されたのだ。式典が盛り上がった場合は思い切って噴水させてみてはどうか。当地の新聞はこう提案する。果たせるかな、夜になっても人出は絶えず、「夜に入りて式場なる公園内にては(中略)一層の雑沓を増し噴水の如きも一旦見合の筈なりしを稍水勢を緩めて噴出せしめ美観一方ならず」。
 
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『大阪毎日新聞』一八九五年(明治二十八年)六月八日付