戦争・天皇・水道―祝う噴水(5)

一八八九年(明治二十二年)北海道・函館の市中を訪ねてみよう。九月二十日の疎水式に向け、街はさまざまな装飾で埋め尽くされていった。
 
「今度の疎水式に付種々の飾り物を作る中に水道の水を利用して噴水など装置るには区役所の許可を得る事なるが右出願は昨日限りにて締切り今日よりハ許可されざるよしなり」(『函館新聞』九月十八日付)。
 
九月二十日前後の『函館新聞』の紙面から噴水とおぼしきものを拾い上げると、「会所町ハ八幡坂へ庭を築き中央に井戸を設け金網にて丈余の円筒形を以て之を掩い中より噴水せし」「大町入丁印傍の人造噴水ハピカピカして綺麗綺麗」「旧朝日橋の跡地へハ杉の葉にて高サ七間の三階台を造り頂上より噴水させ下にハ蛙と鯉の造り物」「末広町東組にてハ二十間坂へ大紀念碑ハ上に鳳凰下にハ玉取姫の水仕掛け」「鶴岡町には(中略)矢張同町の催ふしにて天狗と三平二満(おたふく)の酒盛は水道の水を引いて銚子の口より盃中に注ぐところ」(以上九月二十日付)「谷地頭町の平田文右衛門氏庭園…庭内の泉水に菓物と野菜を用ひて造りたる大蛇と蓑亀の口より噴水せしめたる」(九月二十二日付)。まさに街全体が水芸の舞台となっている。
 
もう一例、今度は一九〇五年(明治三十八年)七月二十三日、通水式を迎えた岡山の様子を『山陽新聞』で見てみよう。
 
「山鉄岡山駅前に噴水、岡山米取引所門前に来賓歓迎門の噴水、西中山下車町橋際に噴水、県庁坂に露人敗戦を悲み其の眼より涙と流れ出る噴水及び露国婦人の眼を掩ひたるハンカチーフに涙と滴たる噴水、二十二銀行前に噴水作用に依る機械体操人形、橋本町と西大寺町の境に祝通水式と題するイルミネーション、京橋際に廻ぶらんこ人形、中橋、小橋に雨降噴水等を設けたれば」(「水道通水式余興」七月二十五日付)。
 
こちらもまた、噴水、噴水、噴水、噴水である。他にも「大国旗竿頭より噴水」「直立大噴水」「むかで噴水」(?)といった文字が紙面に踊っている(七月二十三日付)。
 
「露人敗戦を悲み其の眼より涙と流れ出る噴水及び露国婦人の眼を掩ひたるハンカチーフに涙と滴たる噴水」はどんなものだったのだろう。水道の通水を祝うだけでなく、折しも日露戦争の戦勝を祝う(それにしてもあからさまだが)噴水ともなっていたようだ。
 
こうした噴水の多くは仮設の工作物で、セレモニーが終われば取り壊されたと思われるが、次のような例もあった。一九〇七年(明治四十年)六月の下関。「本月十日水道通水式挙行当日下関駅前に設置したる噴水道式後直ちに取毀たれたるが右は気候の酷暑に向ふのみならず当市に於ける枢要の地にして風致を添ふる上に於て必要なれば駅前旅館連署して仝噴水を是非再設さらるべき旨水道事務所に願い出でたるが事務所に於ても其存置の理由を認め目下詮議中なる由」(『馬関毎日新聞』六月二十六日付)。下関駅前に噴水を常設しようという声の呼び水になったのだ。
 
 
もっとも、地元の投書によれば最初の噴水は「市水の噴水は通水式を祝するため態々設立したのだから惡口を吐いても済まないが、停車場前の猩々の頭の毛が禿茶瓶になつているの(中略)は甚だ見苦しい」(六月十二日付)と酷評されている。下関駅前を撮影した絵葉書で当該の噴水を写したものは見たことないが、はたして禿茶瓶の猩々に再登板の機会はあったのだろうか。