戦争・天皇・水道―祝う噴水(4)

水道通水から三年後の一八九八年(明治三十一年)九月、大阪でまた新たな噴水の設置計画が持ち上がる。
 
九月十四日の大阪市会。議事案件は「行幸奏請ノ件」(『大阪市会史』第三巻)。十一月に府下で軍の特別大演習が行われる。統監する天皇陛下大阪市内の大本営に御駐輦あらせられると伝え聞く。これは千載一遇の好機、ぜひとも市内への御臨幸を仰ぎたい。議案は全会一致ですぐに可決された。
 
こうして始まった御臨幸プロジェクトで、行幸先として選ばれたのは大川(旧淀川)に面する洋館「泉布観」であった。どこに御臨幸を仰ぎ何を天覧に供するか、早くから関係者の間では「泉布観」を前提として内々で検討が進んでいたのだろう、市会が開かれるより先に「淀川に鉄管を埋め水道を利用して水面六十間以上に昇る噴水を拵へ」云々という具体案を報じる新聞もあった(『大阪毎日新聞』九月十四日付)。「天覧噴水」というわけだ。
 
市会の議決後、翌九月十五日に市当局で協議されたという案は「澱川(よどがわ、原文ママ)河中に適当なる装置にて大なる築山を築き処々に噴水及大瀑布を設くる筈にて尚泉布観の処へも大噴水を設け而して御観覧所と河中の築山との間の河中に府下学校生徒の端艇競争を催ほさしめん」、泉布観が面する(旧)淀川の中に築山や噴水や滝を作り、御観覧所と築山の間ではボート競争を行うという大掛かりな計画であった(同九月十六日付)。
 
ところが、やれ築山だ、やれ滝だと「余り偉観を為すが如きは民力休養の御趣意に背き却つて恐れ多ければ」との声で「築山瀑布等の仕掛」は中止。しかし、「噴水或は水道を利用して為す可き水仕掛は是非とも設計する筈なり」。噴水の設置にこだわったのはなぜか。少々長いが記事の続きをそのまま引用しよう。「我大阪の水道完成の起源を尋ぬれば十六七年の頃当府に拉病非常に流行して府民の大に苦むの状を聞召され畏くも衛生費の内へ皇室より金三千円を下賜されしより府民一般感泣して其後益衛生に注意したるのみならず当時澱川の水質検査は御下賜金の一部によりてなしたる如き大阪水道の水は申すも畏き御因みあるを以て此際水道の完成して今は斯く迄清き流を飲むに至り悪しき病も少くなりし事を天意に達したき為なりと」(同九月十七日付)。水道が未整備で水が不衛生だった頃、その対策にあたり皇室から多大な恩恵を受けた。今では水道が完成し、これほど清らかな水を飲めるようになり流行病も少なくなったことを陛下にお伝えしたい。まさに噴水は水道事業の成功を「あふれ出る清潔な水」として視覚化してみせるモニュメントとしての役割を期待されていたわけだ。
 
計画はトントン拍子で進み、測量を基に淀川の中に「二十間宛(ずつ)隔て都合五個の噴水器を設け七十尺の高さに噴水せしむ」(四十メートル弱の間隔で高さ二十メートル強の噴水が五つ並ぶ)との最終案がまとまった。さらに「泉布観の河岸に硝子製紅球燈に白く菊花章を染め抜きたるもの約五百個計りを掲げ球燈と球燈の間にパイプを通じ無数の小孔より噴水せしめん」(同九月二十四日付)と検討中していた矢先、突如噴水の建設自体、中止となった。十月一日の出来事である。「例令(たとえ)市民全体の希望とは云へ(中略)多額の費用を要する催しなどは叡慮にあらせられざる御模様」、陛下のお考えにはそぐわないとの意見が宮内省からあったそうだと報じられている(同十月二日付)。つくづく大阪の噴水は都合よく行かぬらしい。
 
さて、幻に終わった「天覧噴水」、特に「球燈と球燈の間にパイプを通じ無数の小孔より噴水せしめんとの計画」については「千日前あたりの水芸に類し(中略)余り児戯に類したれバ不敬にわたる恐れあり」という批判があった(「大阪通信」『東京朝日新聞』九月二十三日付)。しかし、水道の通水を祝う行事ではむしろ「水芸」よろしく、あちらでもこちらでもあれやこれやから水が噴く仕掛けを作り、町を挙げて「あふれ出る清潔な水」を祝ったのだ。