戦争・天皇・水道―祝う噴水(3)

一八九六年(明治二十九年)二月二十六日の市会では、扇谷五兵衛議員から「中ノ島公園噴水撤去二関スル建議案」が提案された。議員曰く「前年中ノ島公園二建設シタル噴水ハ意匠構造共二宜シキヲ得ス公園ノ風致ヲ害スルノ感アル」。噴水が公園の美観を損ねているという。「頗ル拙劣ニシテ一日存スレハ一日不体裁ヲ増ス」とまで言い切っている。そこで扇谷議員が出した代替案はといえば「亀或ハ蛙等ノ口ヨリ噴水セシムルコトヽ為サハ可ナラン」。亀や蛙の口から噴水させればよい。何を言い出すのかと、いささか唐突にも思える扇谷議員の亀案だが、往時ならすぐに思い浮かぶ先例があった。
 
中之島公園の噴水お目見えから五ヶ月後の一八九五年(明治二十八年)十一月十三日、水道の通水式が水源地で行われた。扇谷議員は「通水式挙行委員」の一人で(『大阪水道誌』一八九九年)、通水式の余興として水源地には「委員諸氏主任技師の意匠を凝らせし」噴水が設けられた(『大阪毎日新聞』十一月十一日付)。その一つが巨大な亀の噴水であった。「沈殿池の右に当りて大いなる雪輪形の池を穿ちその中央の巌上にセメント製の亀を置き口より八十五尺の高さに噴水せしむその壮観云ふ可らず(三面絵画参看)」(『大阪毎日新聞』十一月十四日付一面)。
 
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『大阪毎日新聞』一八九五年(明治二十八年)十一月十四日付三面
 
 
「三面絵画参看」、さてその三面はと見てみれば、紙面の中央、六段の紙面の四段をまたぐ大噴水。八十五尺はおよそ二十五メートル。多少は挿絵の誇張はあるだろうが、たしかに壮観だ。亀案は「過日ノ上水道落成式ノ場合二用井タル諸考案中ノ優物」というわけだ。この噴水は一時の余興で終わらず、少なくとも、三年後に発行された『八方美人新聞』(!)第十七号(一八九九年六月一日発行)という二つ折り四面の新聞では「亀吹上」として描かれたこの大噴水を確認することができる。
 
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『八方美人新聞』第十七号(一八九九年六月一日発行)
 
さて、中之島公園の噴水の美観は如何。議論百出、侃々諤々。結局扇谷議員の建議は否決されるが、このときの議論の中で「其上二豊太閤ノ銅像ヲ安置センカトノ考案」、噴水塔の上に豊臣秀吉銅像を置いてはどうだろうという案が言及されていることは記憶しておきたい。
 
一八九八年(明治三十一年)五月三十一日の市会では泉議員らから「中ノ島仮公園地噴水塔改築ノ建議案」が提案された。今度は水の使用量が槍玉に挙がったのだ。当時、大阪の水道事情は「明治三十年における接続町村の市編入と市民の激増とに依り断水頻々として起り」(『大阪毎日新聞』一九一四年三月二十日付)という状態にあった。そうした折、「噴水ノ為二貴重ノ上水ヲ費消スルハ実二惜ムヘキコトナリトス」。よって、夏には「一日一万二千六百九十石ノ多量ヲ要」する現在の噴水塔は撤去し、「一日凡ソ四千石内外」、三分の一の水量で済む噴水に改築せよという訳だ。もはや、市の水道事業のシンボルどころか、厄介者扱いである。しかし、これまた賛否両論の末、建議は否決された。
 
一八九九年(明治三十二年)八月十九日の市会。この日、すでに噴水の水は止められていた。「本年ハ市中ノ給水量増加シテ断水ノ憂アリタルカ為メ一般需用者ノ噴水ヲ禁止シタル状況ナレハ公園ノ噴水モ亦自ラ然ラサルヲ得ス」。市の当局者はこう説明している。それを受け「今後益々水ノ缺乏二苦シムハ明カナリ」とした渋谷議員は続けて「之ヲ毀ツテ豊公ノ銅像ヲ建ツルノ計ヲ為サンカ乃チ先ツ噴水廃止ノ建議ヲ為スヘシ」と述べている。またもや「豊公ノ銅像」である。どうあっても銅像を建てたい御仁たちがおり、彼らの眼には格好の台座と映ったらしい。
 
その後着々と銅像の設置計画は進められていく。「中之島公園噴水石上に豊公の銅像を安置し紀功、紀念二つながら永く存置したしとて同市の有志者相共同して第五博覧会と同時に之を成功せしむる筈なりと」(雑誌『図按』一九〇二年十月二十五日発行号)。銅像が出来てしまえばあとは早い。一九〇三年(明治三十六年)の第五回内国勧業博覧会に合わせ大阪城内に豊臣秀吉銅像が建てられたのを好機として、ついに噴水は廃止、銅像の台座となったのは絵葉書のとおりである。
 
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「大阪中嶋公園秀吉公銅像」絵葉書