楊柳観音噴水(1903年)

 1903年(明治36年)大阪で開かれた第五回内国勧業博覧会に登場した「楊柳観音」の噴水。当地ではその色っぽさが話題になった。
 
 こんな事件も新聞で報じられている。人波をかきわけて噴水池に入ろうとするひとりの青年。見つけた守衛の制止も聞かず、青年はしきりと観音様のそばに行きたがる。その理由を聞いてみれば―。題して「楊柳観音を恋婦(こいおんな)と見る」。
 
 徳田藤吉青年、二十八歳。青年の「恋婦」は大阪の花街、北新地は「大西席」の芸妓春路。よくある話、青年の恋は実ることなく、他の客に身請けされた春路は東京へ行ってしまう。せめて愛しいあのひとに似たひとでもいないものかと探す日々、「フト観たる楊柳観音は春路の顔に生写し(中略)アノ観音が春路と化してせめて一言なりと語を交してくれまじきや」。止めてくれるな、守衛さん。
 
 「如何やら正気の沙汰とも思はれずもしやき印でゞもあつたら不都合と説諭して立去しめしとの事なるがこれに就けても観音の愛嬌は実に凄まじいものなり」(『大阪毎日新聞』1903年3月21日付)。
 
 また、この博覧会では大々的にイルミネーションが取り入れられた。光に彩られた夜の会場はまさに不夜城。なかでも、赤、紫、黄緑、ライトブルー、白と色の変わるサーチライトに照らされた夜の楊柳観音は「実に夜会の中心点たり」(同紙5月10日付)、昼にも増して人気を集めた。『大阪毎日新聞』を舞台に、記者兼小説家として活躍した菊池幽芳は、とりわけ紫の光、「ヴアイオレツトに照し出されたる時」の楊柳観音は「側面より見背面より見何れよりするも艶麗眞に云ふべからず人を悩殺するの趣有之候」と絶賛する。悩殺されたのは徳田青年だけではなかったらしい。
 
 観音様の人気は博覧会にとどまらず、その後、谷回春堂なる薬舗の「回春目薬」で(目薬に「回春」もないもんだが)、その色気にあやかったのか、商標として採用されるに至る。右手に持つ霊具の水瓶(すいびょう)とそこからあふれ出る「無量功徳水」も、あっという間に目薬の瓶と目薬に早変わりだ。(書きかけ)
 
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「美術館正面」絵葉書
 
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「美術館前噴水」絵葉書
 
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楊柳観音(拡大)
 
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かなり適当な出来栄えの挿絵だが、谷回春堂「回春目薬」と楊柳観音
(『大阪毎日新聞』1908年3月25日付)
※懸賞クイズの紙面のため、「回春」は「○○」と表示。伏字ではありません。