【番外編】ホノルル・カピオラニ公園の噴水・3

 大正4(1915)年7月26日、御即位大礼奉祝会は発足した。発足当日からすぐさま様々な事項の審議に入り、噴水器建設も論じられている。
 
 永久的記念物として「鶴亀の噴水器」を建設してこれをホノルル市に寄進する、会の委員長となった領事の有田八郎(のち外務大臣三島由紀夫をプライバシーの侵害で訴えた小説『宴のあと』事件でも知られる)はこう提案した。有田領事が思い描いていた「鶴亀の噴水器」のイメージは東京・日比谷公園の鶴の噴水で、審議入り前から並行して、日比谷公園に建設しある噴水器は何程の費用を要するか之れの経費を知るの要ある」と外務省本省に確認している(1915年7月28日『布哇報知』)。
 
 日比谷公園の鶴の噴水は、明治36(1903)年に完成したもので、東京市水道部が東京美術学校に製作を依頼した。東京美術学校で手がけた噴水としては他に、第五回内国勧業博覧会の噴水、浅草公園の噴水、東京勧業博覧会の噴水がある。「鶴亀の噴水器」の製作発注先として東京美術学校が選ばれたのは、こうした噴水製作の実績と、なにより完成形としてこの鶴の噴水をイメージしていたことが背景にあるのだろう。
 
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 絵葉書を見比べると、二つの噴水の全体のフォルムはどことなく似ている感じもするが、大きさは随分異なる。日比谷公園の鶴の噴水の高さは、台座を含めて4メートル弱。一方、ホノルルの噴水塔はかなり巨大だ。はたして、発注側、受注側ともこれほどの巨大建造物をはじめから想定していたのだろうか。これが後年、建設が遅れに遅れる伏線になったのではないだろうか。
 
 さて、有田領事の「鶴亀の噴水器」建設の提案に反対を唱えた人物もいる。浄土宗の「ハワイ開教」に尽力したという「伊藤圓定氏」もその一人だ。反対理由が興味深い。
 
 噴水器の建設地は当初からカピオラニ公園が検討されていた。公園はその字に「公」と含むとおり、公共の場である。そこで、反対する伊藤氏はこう述べる。「日本式の噴水器を西洋人の公開地に建設するが如きは排日の材料を供給するに等しければ永久的記念物として公会堂を建設するに如くはなし」(1915年7月27日『布哇報知』)。鶴亀をあしらった噴水器など、公共の場にことさら日本式のモニュメントを設置するのは排日を煽る材料になる。記念に建てるなら無難な公会堂がよい。
 
 一方の有田領事は、これをいわれなき話だと退ける。「同公園(注:カピオラニ公園)は素と日本式に倣ひたるものゆえ更に日本風の噴水器を寄進せば市の喜び此の上もある無く排日を恐るゝが如きは謂れ無きの甚しもの也」(同前)。
 
 御即位大礼奉祝会発足の日の議事では、この件が最も激しく議論が戦わされたというが、最終的には「鶴亀の噴水器」を建設することになった。
 
 噴水は勝手気ままに水を噴いているだけという訳ではないのだ。噴水はその一面にモニュメントしての性格を備えている。モニュメントである以上、時代の空気を敏感に映し出す。たかが噴水のデザインというなかれ。ここには、一方に大正天皇の御即位、他方には移民と排日という、極めて政治的な話題がせめぎ合っていたのだ。