噴水と浜寺海水浴場

 一九一二年(明治四十五)七月一日、大阪堺の浜寺海水浴場の開場を伝える『大阪毎日新聞』の広告は「大脱衣場=大休憩所=清水浴場=海上運動場=海上大噴水の諸計画は悉く面目を一新せり」と新しいアトラクションの登場を予告している。明治時代最後の年の夏、大阪の海水浴場に現れたこの「海上大噴水」を通し、近代日本のどのような姿が見えてくるだろうか。

 浜寺海水浴場は一九〇六年(明治三十九)七月に開設された海水浴場である。経営は大阪毎日新聞と当地の私鉄、南海鉄道が行った。「十馬力の電気モーターを以て中天に清水を吹き上げしむ蓋し稀有の壮観」、海上へわざわざ真水を引き、それを機械仕掛で天高く噴き上げというこの噴水は、大阪毎日新聞としても集客の目玉になると考えていたのだろう。連日、「海の方には寄する波を両断して海中へニュッと衝き出た丁字形桟橋の両尖端からは渦巻と真直なのと二つの噴水が真水を噴き上げ…これらは少年連中に大受けで海上の人気を背負って立つ」(七月十五日付)、海上の大噴水は清水八面に迸出して坐らの水浴に潮気を洗い流す快さ」(七月十七日付)、海上には例の清水の大噴水不断の珠を吐いてさながら理想の龍宮城の一部を現出せる趣あり」(七月十八日付)とこの噴水について報じる力の入れようであった。

 ちなみに、この噴水には松田式タービンポンプが用いられている。ポンプの販売元である松田式喞筒合資会社は、マツダの創業者である松田重次郎が起こした会社で、ポンプの用途に「噴水及瀑布」と挙げている通り、まさに同時期、新世界ルナパーク(一九一二年開業)や千日前楽天地(一九一四年開業)で大ポンプを用いた人造の大瀧を建設し、大阪の遊園地業界に貢献している。この噴水も当時最先端の技術が投入された遊興設備であったと言えよう。

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大阪毎日新聞 一九一二年(明治四十五)七月十二日

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大阪毎日新聞 一九一二年(大正元)八月二十一日

 開設当初こそ浜寺海水浴場の設備はテント張りの脱衣場や休憩所程度であったが、年々こうして娯楽設備が強化されてくゆく。南海鉄道が浜寺海水浴場の娯楽施設の充実に力を注いだのは、無論、海水浴場に娯楽を求めてやって来る人々に応えようとしたものだが、近代日本における海水浴場はそのような娯楽の場としてスタートしたわけではなかった。

 明治時代初期の海水浴は病気療養のためという性格を強く持っていた。イメージは湯治に近い。一八八一年(明治十四)、愛知県の大野を訪れ海水浴場設立の立役者となった後藤新平は当時愛知県病院長、一八八五年(明治十八)に神奈川県の大磯に海水浴場を開いた松本順は元陸軍軍医総監というように、医学界の人々が深く関わっていたことからもその性格が伺える。

 しかし時を経て、「明治四三年頃は、当初医療的色合いの強かった海水浴が、行楽や娯楽の対象に変化していた時期である」(畔柳昭雄『海水浴と日本人』、二〇一〇年)。この変化をもたらした最大の要因は鉄道である。「最近各地において電気鉄道の発達に伴ひ海水浴場が開かれつゝあるが、これ電車の乗客吸収策とも見らるゝけれども、又民衆の娯楽が海に向つて注がれるやうになつたものとも考へられる」(『浜寺海水浴二十周年史』、一九二六年)。『浜寺海水浴二十年史』に掲載された「日本全国海水浴場一覧」によれば、鉄道会社が設立者・経営者となっている海水浴場が全国各地にあったことが分かる。鉄道網の発達は都市の人々を郊外へと連れ出し、海浜を日帰りのできる行楽地に変えてきたと言えるだろう。

 さて、南海鉄道が浜寺海水浴場の娯楽施設の充実に力を注いだ背景にはもう一つ、強力なライバルの登場があった。一九一二年(明治四十五)当時、南海鉄道はすでに難波から堺を抜け和歌山市まで届く一大鉄路を築き上げていた。このドル箱区間への新規参入を図ったのが阪堺電気軌道(現在の阪堺線)である。阪堺電気軌道は、大阪・恵美須町から堺・浜寺までの区間と、途中の宿院から分岐した堺大浜水族館までの区間で鉄道の敷設許可を得、一九一〇年(明治四十三)に設立された。現在の南海本線阪堺線に引き継がれている通り、両路線は浜寺まで延々と並行して走っており、激しい集客競争を繰り広げることになる。

 両路線の沿線には住吉公園、大浜公園、浜寺公園と行楽地が並んでいた。浜寺公園への乗客誘致に力を入れる南海鉄道に対し、阪堺電気軌道は大浜公園の開発で対抗していった。一九一二年(明治四十五)四月には恵美須町から浜寺まで開通した阪堺電気軌道は、その二ヶ月前、一九一二年(明治四十五)二月に堺市から大浜公園を借り受けている。半年後一九一二年(大正元)八月には大浜公園への足となる大浜支線(宿院~大浜海岸)を完成させ、阪堺電気軌道は「波打際迄直通する唯一の電車」として、大浜・浜寺での競争を加速させてゆく。しかし、その後一九一五年(大正四)六月、阪堺電気軌道南海鉄道と合併し、二社の集客競争はほどなく終焉を迎えることになる。

 この客引き合戦において噴水がどの程度集客に貢献したか、はっきりしたことはわからない。浜寺海水浴場には一九一三年(大正二)以降も引き続き「海中噴水」「海上噴水」が設置されたことを当時の新聞が伝えている。また、一九一四年(大正三)の夏には海岸に噴水台が新設されたという。
 阪堺電気軌道も後を追いかけるように、一九一三年(大正二)七月に大浜の海水浴場に大噴水を設けた。阪堺電車の堺大浜遊泳場は六日より開始す、浴場は海楼を中心とし男女両方に分ち海楼の側面には十数条の大噴水をなし夜は五色の電燈を点す由」(大阪朝日新聞、七月六日付)。「これが呼物となり開場早々より浴者頗る多しと」(大阪時事新報、七月十二日付)。
 こうした点を考えると、噴水に人々を惹きつける効果がそれなりにあったといってよいのだろう

 平山昇『鉄道が変えた社寺参詣』(二〇一二年)は、たとえば「初詣」の成立過程に鉄道が深くかかわっていたように、鉄道の開業・発展と熾烈な集客競争が社寺参詣における人々のライフスタイルをいかに変容させたか論じた本である。社寺参詣で起きたことはまさに海水浴場でも起きていた。このことを教えてくれたのが浜寺と大浜の噴水である。


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大阪毎日新聞、一九一五年(大正四)七月二日付

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「大噴水」という看板が見える。

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大阪毎日新聞、一九一三年(大正二)七月七日

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大阪毎日新聞、一九一三年(大正二)七月二十七日付