「噴水の少い都市」

 東京美術学校(現東京藝術大学)で図案科の教授を務める等、明治時代後半から昭和にかけて日本の図案工芸界の先駆者として活躍した意匠家、島田佳矣(よしなり)は大正11年(1922)、雑誌『現代之図案工芸』(8巻7号)に「噴水の少い都市」という小文を寄せている。東京の噴水を切り口に、建築様式の進歩、文化生活の向上に伴い、これからの噴水がどうあるべきかを論じた文章である。浅草公園等で自ら噴水の意匠を手がけたことのある佳矣―――山形・千歳公園の鶴の噴水の意匠もおそらく彼の手による―――は、噴水論の前段として東京の噴水事情を、噴水に意識的な意匠家らしく、細かなエピソードを織り交ぜて書き記している。それぞれの噴水の絵葉書を添えて、「噴水の少い都市」前段をご覧いただこう。

噴水の少い都市
 
 夏になると、想出すやうに欲しいとおもふのは噴水であるが、それもちかごろではあまり作られない、市内にもいくらもない、
 九段、靖国神社境内にある鯉の噴水は、割合にも高い方で、あれは確か納富介次郎氏の図案で、石川県で作つたとおもふ、何でも前田侯から、寄進されたものと覚へておる。
 一番古いものといふと、元の横浜停車場前にあつたものだが、いまでは何処へ往つたのやら形もない。日比谷公園の鶴の池の噴水は、最初は、市で、鶴の下に亀の台座を拵えたものであつたが、丁度その頃、支那の大官連が東都を訪れた時この噴水を見て彼等は一斉に批難した、それは支那人が一体に亀を嫌うところから。で、東京市では再考した結果、とまれ公園なるものは各国人が漫遊し散策する解放の場所だから、人類の嫌悪するものを作つておくといふことはよくないといふ所から、亀の台座は現在のやうに取換へられた訳である、鶴は、確か学校の近森氏が吹かれたと記憶する、その時に、津田信夫氏が十数の水鳥を制作して、いまの、あの石垣の方の水端に据えられた筈だつたが、いまでは、まるで影もないやうに見へる、とまれその当時はあつたものだが、ちかごろではどうなつてしまつたものか見当らぬが、実は、あれは市の経費の関係で、アンチで製作したものだから、多少そんな関係で、兎や角されてしまつたのかも知れない、
 博物館前に、あつたのを見たが、ちかごろどしたか見当らない。浅草の観音裏にある噴水は、自分で図案して、高村光雲氏監督の下に、津田信夫氏が吹かれたものだが、場所柄のせいか、いつも人だかりで賑かである。
 この外には、一寸気が附かない、とまれ市内にはいくつもない、京阪の東宮御所の御庭には、たいそう立派なのがあると聴いておるがまだ拝観しない。

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東京藝術大学の吉田千鶴子さんにこの小文の存在をご教示いただきました。厚く御礼申し上げます。