東京大学噴水物語(四)

噴水受難の時代

 戦時期は噴水にとって受難の時代であった。

 政府は戦争遂行に必要な金属資源の不足を補うべく、国民からの金属回収に踏み切った。時局の悪化とともに、金属類回収令の公布(昭和16年8月)、銅像等ノ非常回収実施要綱の閣議決定昭和18年3月)、金属回収本部の設置(昭和18年3月)と金属回収は強化されていった。

 このときの金属供出で姿を消した噴水は少なくない。靖国神社にあった通称「金太郎噴水」も消えた噴水のひとつである(昭和18年4月)。無論、東大の噴水も無縁ではなかった。

噴水塔から一千貫

 昭和18年(1943)4月12日付の『帝国大学新聞』は、「噴水塔から一千貫 金属製品を自発的に取りはづし 本学今は供出令待つのみ」という見出しを掲げ、噴水塔の解体作業の様子をつぎのように伝える(写真は、解体された噴水塔)。「法金」(おそらく「砲」金)が約一千貫、すなわち青銅が約四トン、水盤だけでも約一トン確保できる計算になる。
近頃本学では図書館前の噴水塔を筆頭に、アーケードその他の壁間を飾る電気器具や美術品、階段廊下の鉄柵手すり等凡ての金属製品が相ついで取はずされて行く これは政府が唱導する金属回収運動に呼応して本学営繕課で学内の不急施設や代換品入手可能の設備を収納しつゝあるもの、とはいえ別段関係官庁の命があつたからではない、いつでも指示のあつた時にはと自発的にとられてゐる最高学府の臨戦態勢、既に数次の供出を行つては来たが、また今次の作業によつて約五千貫が浮く見込み更に人手と予算が許せばなほ余力があらうといふ、げに頼もしき戦ふ大学の姿

今次の作業の王座は図書館前の噴水塔、これだけで浮く法金が約一千貫、池の底にはられた鉄鋼が約二百貫、中空に水柱を高く挙げてゐたころの偉容もさることながら取りはづされて池の横にあるとまたズツシリとして水盤一つも四、五人位の学生の手ではビクともする気配がない、”まあそれでだけでも三百貫は欠けないね”工事の作業員も自分の手柄の様に誇らしげである、而も後の池は防空貯水池でなほ一役とは……

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 噴水塔の解体後、池には営繕課の手でコンクリートの代用品が据え付けられた(昭和18年5月3日、『帝国大学新聞』「噴水塔あとにお化粧」)。記事には「シンメトリは崩すまい」「周囲との調和を破らぬ程度に」との言葉が並ぶ。昭和18年当時においても、噴水塔は、図書館前広場という空間で「ここしかないというほど動かし難い位置を占め」、景観の要と認識されていたことが伺える。

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先頃金属回収で取はづされた図書館前の噴水塔、永い間学生達の日向ぼつこの道連れだつたもの故、そのあとが余りにわびしい姿ではと営繕課の親心(?)で目下簡素な代用品ながらコンクリートでお化粧中、あたり一面萌え出でた若葉の繁みから緑の風がさやさやとわたればたとへかりそめの姿でも、シンメトリは崩すまいと懸命に測量規を覗く技手さん――もう少し右、もう少し上――声に応じて左官屋さん二人がのどかにこてを振る
 
水が噴き出すといふ所迄は予算も材料も許しませんし姿だつて以前と比ぶべくもありませんが、せめて周囲との調和を破らぬ程度にと考へましてね、下の池もポンプでも手に入つたら本格的な防空貯水池にするつもりです――と営繕課の弁

わだつみの像の登場

 さて、昭和25年(1950)に話を戻そう。

 噴水塔が戦前と変わらず水を噴いていれば、図書館前にわだつみの像を設置しようという運動は、邪魔になる噴水塔をどこへ移すのかという論議を呼んだはずである。あるいは、そうした論議を避け、最初から図書館前広場は設置場所の候補にならなかったかも知れない。

 しかし、噴水塔はすでになく、ここは噴水跡である。コンクリートの代用品があったとしても、さほどの障害にはならない。噴水塔に代わり、『きけわだつみのこえ』から生まれたわだつみの像が図書館前広場の新しい顔になろうとしていた(写真は、『わだつみのこえ』昭和26年1月15日号に掲載された「東大図書館前の建立を予想したトリツク」写真)。

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