凱旋紀念博覧会の噴水(その四)

 まず訪れたのは名古屋の覚王山日泰寺。タイから仏舎利釈尊金銅仏を贈られたことをきっかけとして、明治37年(1904)に創建された寺院で、無論、名は「タイ」を表す。天女像は日泰寺のまさに門前にある「千躰地蔵堂」の脇の奥まった場所にある。 
 
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 左手を見ると、破損してしまったのか、手首のあたりから明らかに質感の異なる手がつぎはぎされ、金色の玉を手の平に載せている。また、右手には葉先の尖った、特大の枯れ葉を持たされている。
 
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 うっかり細部を調べ忘れてしまったが、天女像の前には「虚空蔵菩薩安置」という石碑がある。ここでまた、『畫題辭典』にご登場いただくと、虚空蔵菩薩は「其體相は左手劔を持し、右手如意寶珠を持す」。左右こそ逆であるが、葉先の尖った枯れ葉が「劔」、金色の玉が「如意寶珠」という見立てに見えてこないだろうか。推測の域を出ないが、「虚空蔵菩薩」という言葉に引き寄せられ、いつの間にか伎藝天女だったことは忘れられ、すっかり虚空蔵菩薩として納まってしまったのかも知れない。
 
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 背後に回ると「明治三十九年四月於常滑作之」と刻まれていることが確認できる。
 
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 続いては常滑市営火葬場。こちらは場所柄、さまざまな方々のご好意を得て、見学にこぎつけた。さらに、高さのある「陶彫」だということで、天女像の手元を見るために、民俗資料館の中野さんには脚立のご用意までお願いしてしまった。まずはこの場を借りて厚く御礼申し上げたい。旅先で脚立を持って地元の学芸員の方と火葬場に行く日が訪れるとは、人生は本当にわからない。当日はあいにくの雨天であったが、大粒の雨に打たれながらシャッターを切った。貴重な写真なので、できるだけたくさん載せておきたい。
 
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名古屋の像は耳の後ろに垂れる髪の房が失われており、顔の印象が異なって見える
 
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「左手に天花を盛りたる皿を捧げ」が花弁の一枚一枚まで見事に陶彫で表されている
 
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名古屋の像と同じ場所にやはり「明治三十九年四月於常滑作之」と刻まれている
 
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 常滑の天女像は保存状態が非常に素晴らしい。壊れやすい陶器でありながら、顔や両の手はもちろんのこと、天女が身にまとう「天衣」「瓔珞」の細かな飾りまで、ほぼ無傷で残っている。平野霞裳がどのような意図で「伎藝天女」を題材に選んだのかは定かではないが、常滑「陶彫」の技・藝の粋を集めた作品に伎藝を司る女神を選んだ心意気を勝手ながら感じてしまう。
 
 一方、常滑「陶彫」の第一級の作品という見方をすれば、シンボリックな場所に移せばいいのにとよそ者は簡単に考えてしまう。駅前広場とか。しかし、もはや、これは取り外して動かすことができる陶彫の「伎藝天女」像ではないのかも知れない。火葬場の職員の方は親しみを込めて「観音様」と呼んでいた。、この地に運ばれてきた日から、火葬場という土地にしっかりと根ざした「観音様」に生まれ変わったようだ。