夏目漱石の墓と噴水(前編)

 大正五年十二月九日歿 俗名夏目金之助
 雑司が谷霊園の一角にある、文豪・夏目漱石の墓である。漱石の一周忌に際し墓所を移して新たな墓を建てることになり、「何でも西洋の墓でもなし日本の墓でもない、譬へば安楽椅子にでもかけたといつた形の墓をこさへようといふので、まかせ切りにしておきますと、出来上つたのが今のお墓でございます」(『漱石の思ひ出』)。
 
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 漱石の没後、鏡子夫人の思い出語りを聞き書きした松岡譲の『漱石の思ひ出』(昭和3年)は500頁を超える大著で、一冊の本として刊行する前、雑誌『改造』で連載した夫人のよもやま話は発表当時、「読者の予期しない事実などが余りに赤裸々に物語られてゐるところから、語る人も語る人なら書く者も書く者だ、少しは手加減したらよかりさうなものだのにといふやうな非難を聞いた事もあつた位」(『漱石の思ひ出』あとがき)だったという。その評通り、『漱石の思ひ出』には『吾輩は猫である』の猫よろしく、夫人の目に映った明治文士の珍妙なエピソードが随所に登場する。
 
 これは結婚式のスピーチに使えそうな話。夫婦仲が上手くゆく秘訣とは。
 
 ある日、漱石宅を訪ねてきた寺田寅彦とのやり取りに「ウンデレ」なる言葉が登場する。飯時の牛肉屋で知り合いの噂話を耳にしたという漱石先生、「聞いてゐると如何にもウンデレでね」。それを受けて寺田寅彦曰く、「人間ウンデレに限りますよ。何でも細君のいふことをウンウンと聞いてやつて、さうしてデレデレしてゐればこれに越したことはないぢやありませんか」。ツンデレの遥か昔、よもやのウンデレであった。
 
 さて、鏡子夫人の漱石門人評も痛快だ。漱石の死後、議論ばかりで葬儀の準備が遅々として進まない門人連をこれまたバッサリと斬る。「門下の方々は方々で、皆さんどなたが頭株といふわけではないので統一がとれません。つまり船頭多くして船山にのぼるの譬で、何か一つ問題がおきますと、すぐに議論倒れで中々果てしがつきません。皆さんが此方を思つて下さることはよくわかつて居るのですがこんなことではどうしようもないと見極めをつけましたので、これはお友達の方々と門下の方々との外に、別に葬儀係の頭株をおいて、その人からぴしぴし進行させて貰はなければならないとかう思つたのです」。
 
 「とにかく皆さんが一言居士と申しちや失礼ですけれど、てんで御自分の意見をもつてられて、事毎にそれが入り乱れて議論の花を咲かすのだから、普段の時ならともかく、かういふ早急を要する葬儀事務には向きません」とここで、鏡子夫人の信厚く適役として登場するのが妹婿の鈴木禎次である。
 
 「〔明治43年(1910)転地療養先の修善寺漱石は一時危篤状態に陥るが、その後持ち直し、帰京して内幸町の病院へ再入院するとそこへ「無事御帰京を祝す」という電報が届く〕)誰が打ってくれたのだろうと考えて差出人の名前を見た。ところがステトとあるばかりでいっこうに要領を得なかった。たゞ掛けた局が名古屋とあるのでようやく判断が付いた。ステトというのは、鈴木禎次と鈴木時子の頭文字を組み合わしたもので、妻の妹とその夫のことであった」(夏目漱石「思い出す事など」)。
 
 鈴木禎次(明治3年~昭和16年)は名古屋高等工業学校で教授を務め、名古屋で活躍した建築家で、現在も名古屋の鶴舞公園に残る大噴水塔の設計者でもある(ようやく噴水とつながった!)。「葬儀係の頭株」に続いて、漱石の墓の設計を任されたのもこの鈴木禎次で、「お墓の形式もこれ又皆さんに相談して居たらきつと議論百出で、とても一周忌に間に合ひさうにもないので」とは鏡子夫人の弁である。
 
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 さて、次の写真も漱石の墓を写したものであるが、ここには日本噴水史の数奇な偶然が隠されていたのだ!(言い過ぎ)というのが次のお話。
 
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