夏目漱石の墓と噴水(中編)

 「九段、靖国神社境内にある鯉の噴水は、割合にも高い方で、あれは確か納富介次郎氏の図案で、石川県で作つたとおもふ、何でも前田侯から、寄進されたものと覚へておる。」(島田佳矣「噴水の少い都市」『現代之図案工芸』8巻7号、大正11年)。
 
 靖国神社の鯉(を抱く金太郎)の噴水は、日比谷公園の鶴の噴水や浅草寺観音堂裏の龍王噴水と並び戦前の東京ではよく知られた噴水で、明治28年(1895)12月12日、「前田侯」すなわち加賀前田家の前田利嗣侯爵が靖国神社大祭に合わせて奉納したという記録が残っている(『稿本 靖國神社年表』、靖國偕行文庫室所蔵)。この金太郎噴水の図案を手がけた人物が納富介次郎である。

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納富介次郎と静子夫人の墓
 
 「本邦美術工藝界に於る所謂圖案家の濫觴なる者なり」(『納富介堂翁事蹟』、大正11年)。納富介次郎は日本の工芸デザインの先駆者とされ、また各地に工業学校・工芸学校を創立するなど教育者としても大きな足跡を残している。自ら創立した金沢区工業学校(明治20年)、富山県工芸学校(明治27年)、香川県工芸学校(明治31年)の他、佐賀県立工業学校有田分校で初代校長を務め、この4校の流れを汲む現在の石川県立工業高等学校富山県立高岡工芸高等学校、香川県立高松工芸高等学校、佐賀県立有田工業高等学校はその縁で現在も姉妹校(さしずめ、納富四姉妹といったところか)として交流が続いている。
 
 畑正吉『工藝の先駆者 納富介次郎先生』(昭和12年頃)という私家版の伝記によれば、石川時代の納富介次郎が「シカゴ博覧会へ出品するために金太郎の噴水を蝋型で作つてゐられた」とある。シカゴ万国博覧会は明治26年。ここから明治28年までの金太郎の足取りが掴めないか、加賀前田家に伝わる古文書などを管理する「前田育徳会尊経閣文庫」に調べて頂いたが(というやり取りは平成16年の秋の話)、残念ながら前田家に渡った経緯は分からなかった。しかし、金沢で製作したとすれば、それが縁でゆかりの前田家に金太郎像が渡り、明治28年に侯爵が奉納したと考えてもあながち不思議ではない。
 
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「九段公園」絵葉書
 
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「九段公園」絵葉書
(噴水部分拡大)
 
 尊経閣文庫には前田利嗣侯爵の事蹟を編年でまとめた『淳正公事績史料』という史料がある。明治28年の記事として、奉納した「銅製噴水器壱基」について「怪童鯉ヲ抱ク形状」「丈凡五尺三寸八分」「石川県金沢新製」という説明書きが並んでいる。大きさは約163cm、「怪童(丸)」は金太郎のこと。古くは「金太郎」という呼び名より「怪童丸」という呼び方が一般的だったという。
 
 怪童丸談義を続けよう。江戸時代の浮世絵師、歌川国芳に『坂田怪童丸』という、巨大な鯉を捕まえようとする金太郎を描いた作品がある。浮世絵研究家の鈴木重三氏の説によれば、金太郎の鯉つかみという類の説話は見当たらず、鯉と金太郎の格闘という図案は、五月の鯉のぼりと金太郎、あるいは歌舞伎の「鯉つかみ」の演出と金太郎を組み合わせた、国芳独自の趣向ではなかったかとのこと。国芳考案の鯉と金太郎はしばしば噴水の図案としても登場する。
 
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歌川国芳『坂田怪童丸』
 
 明治45年(1912)3月20日に開幕した岡山児童博覧会には地元の岡山県立工業学校が鯉と金太郎の噴水を出品している。国芳の鯉に負けず劣らず巨大な鯉で、さらにはさすが工業学校、「夜は鯉の両眼が電燈作用で晃々と凄い光を放つ様になつて又鯉の口には色電燈の仕掛けある」というハイテク鯉怪獣はすっかり金太郎を食い、引き立て役から主役へと登り出た感すらある。
 
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「岡山児童博覧会 会場前ノ噴水」絵葉書