夏目漱石の墓と噴水(後編その4)

 手がかりは明治36年(1903)の新聞記事にあった。11月6日付『東京朝日新聞』の「靖國神社秋季大祭初日の景況」という記事だ。
 
 防衛省防衛研究所図書館に残る陸軍省関連の公文書と重ねあわせると(国立公文書館アジア歴史資料センターのウェブサイトで自由に閲覧できる。通称アジ歴)当時の状況が浮かび上がる。陸軍省『明治三十六年十一月 貳大日記 乾』に「靖國神社庭池ヘ引水ノ件」として綴じられた一連の文書の流麗なくずし字と格闘して読み解いた。
 
靖國神社秋季大祭初日の景況」
 (前略)境内裏手に當れる池は一昨年来修繕を加へ前田侯爵家より献納したる金太郎の銅製噴水器及び仮山西北隅の飛泉は水道部より給水せしむる筈なりしが〔続〕
 
 「飛泉」とは滝のこと。「靖國神社庭池ヘ引水ノ件」のうち、陸軍省高級副官から東京市長尾崎行雄)へ宛てた文書(送甲第一三五九号)を見ると「靖國神社西北ニアル庭池ノ儀ハ従前玉川上水ヲ引キテ仮山ノ瀑布并池中ノ噴水等ヲ設ケ有之候」とある。滝と噴水は、江戸時代から続く玉川上水を水源としていた。ところが、明治34年6月、鉄管を使った近代水道の整備を受け、玉川上水東京市内への給水を停止する。そこで「一昨年来修繕を加へ水道部より給水せしむる」となる。
 
 明治34年の公文書には、玉川上水の給水停止が迫っているので至急、新水道の工事を認可して欲しいという、2月20日付で靖國神社から陸軍省へ宛てた文書が残されている。この文書に添えられた境内の水道配管図では、手水舎への配管はあるが、金太郎噴水が最初に置かれた池はすでに描かれていない。おそらくこの時期に金太郎を動かしたのではないだろうか。
 
 さて、新水道への切替はうまく運んだかというと、そうは問屋が卸さず、東京朝日の記事は「筈なりしが」と続く。再び記事の引用。
 
 水料高価に上り到底其費に堪へざるより其後陸海両省にて其水料を支出する事に定まりしが両省にても其負担に堪へずとて久しく涸水池となし置きたるが今回市参事会にて会議の末市費を以て該池へ給水する事となり既に昨日は水道部員出張し試験的給水を行へるを見たり付いては市にては祭典中特に工事を急ぎ且昼夜給水をなす筈なるも其後は当分の間日出前より日没後まで給水する見込みなりといふ(後略)
 
 なんと水道代がバカにならず、枯池にしてしまったという。明治37年の『東京朝日新聞』の記事には「其給水料一昨年迄水道部へ支拂ひたるが此金額は實に一箇年一千五百圓」(5月5日付)とあるので、明治34年半ばから明治35年半ば頃にかけて一年ほど水道を使ってみて、あまりの費用に使用を取りやめたというところだろう。しかし、大祭中ならびに大祭後の市費での給水が決まり、さっそく水道部の出番となった。
 
 先の記事では「久しく涸水池となし置きたるが」と「市参事会にて会議の末市費を以て該池へ給水する事となり」の間のいきさつを省いているが、参事会の決定の前には陸軍省靖國神社から東京市東京市水道部へ働きかけが行われている。11月11日付で東京市長から陸軍省高級副官へ宛てた文書では「(無料給水を求めた)送甲第一三五九号御照会之趣了承」とある。ところが一方、『靖國神社百年史』の事歴年表は「東京市、崇敬の礼を現わすの目的をもって、神社境内築山の瀑布および池中の噴水・水屋に、無料給水することを申し出る」と記す。これぞ大人の事情という奴である。