夏目漱石の墓と噴水(後編その5・完)

 「裏手の池ハ水涸の儘なりし處今回水道部へ交渉の上噴水せしむる事となれり」(『都新聞』11月3日付)。靖國神社からは「至急」として明治36年10月19日付で、靖國神社宮司・賀茂水穂から東京市水道部長・田川大吉郎へ宛てて無料給水を求めた文書(靖庶第一ニ七号)が送られている。
 
 「(前略)然ルニ頃月他聞スルニ市中公園中ニハ瀧或ハ噴水ノ設ケアルモ水料ヲ不要トノ趣」「果シテ然ラバ当神社境内モ公園指定地ト申事」
 
 靖國神社が水道の使用再開、無料給水の実現へ動き出した明治36年は、西で東で噴水が話題になった年で、東京では戦前の二大噴水、日比谷公園の鶴の噴水(6月)と浅草公園浅草寺観音堂裏の龍王噴水(8月)が相次いで完成している。6月に開園した日比谷公園には噴水がもう一つあり、いずれも東京市が設置した噴水で水道代は掛からない。こうした噴水事情から、時宜を得たと判断して、秋の大祭に間に合うよう急ぎ公園に準じた扱いを願い出たというところだろう。
 
 「殊ニ当神社ノ義ハ殉難者ヲ奉祀セシ神霊ナルヲ以テ国家ニ於テ尊崇セラル依テ当市ニ於テモ厚キヲ表セラ度存候」「瀧噴水等一滴モ私用スルモノニ非ズ全ク衆庶ノ観覧ニ供スルモノニ付」という理論武装も怠りなく。
 
 金太郎が抱える鯉から水が再び噴き始めたので、最後は明治38年の境内に戻ろう。
 
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 当時の境内で最も異彩を放ったであろう、「宛然(さながら)羅馬古城の脂煙画(あぶらえ)に見るが如き赤煉化(あかれんが)の建築物」(『風俗画報臨時増刊 新撰東京名所図会第十七編 麹町区之部中』、明治31年)は、明治15年(1882)に開館した遊就館である。いうなれば軍事博物館で、お雇い教師だったイタリア人のカペレッティの設計である。
 
イメージ 4遊就館正面景」絵葉書
 
 噴水あり、銅像あり、イタリアの古城を思わせる赤レンガの博物館あり。当時最先端の技術をつぎ込んだ和洋混淆の境内について、夏目漱石の友人でもあった(ようやく漱石へ!)正岡子規は「今でも昔の余と同じ様に、この西洋風の庭を愉快に感ずる人が屹度多いであらうと思ふ。其故に若し靖國神社の庭園を造り變へる事があつたら、いつそ西洋風に造り變へたら善かろう」(『病牀六尺』)と述べる。靖國神社にはこんな時代があったのだ。
 
 そしてこの遊就館の脇をよく見ると。
 
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