東京大学噴水物語(五・続)

 3年ぶりの物語再開につき、時系列を振り返りつつ。
 
 昭和3年(1928)現在の総合図書館前に登場した噴水塔は、昭和18年(1943)、戦時下の金属回収の動きに合わせて解体、図書館前から姿を消した。
 
 時は流れて終戦後の昭和25年(1950)。前年秋に刊行された戦没学生の手記集『きけわだつみのこえ』をきっかけとして結成された日本戦没学生記念会(通称わだつみ会)は、「戦死者の霊を弔い、その平和希求の精神を具現し、更に我々生き残つた者の平和擁護の精神的支柱となるべき戦歿学生記念像を建立したい」として彫刻家・本郷新に依頼。9月に完成した本郷新作のブロンズの若き青年像を東大に寄贈し噴水塔跡に建てる計画を進めた。除幕式の予定は12月8日。計画を支持する学生も呼応し、集会を企画するなどの動きがあった。
 
 さて。
 
 ところが、大学側は12月4日の緊急評議会で受入拒否を正式に決定する。東京大学に情報公開請求し、見ることが叶った評議会の議事録によれば、総長は「本学としては学術上及び教育上本学に対し特に顕著なる功労のあった者で、本学関係者によって企てられたるものに限る従来の取扱によって、この申込を遠慮したい」「従来この例外をなすものは市川紀元ニ氏像があったが、戦後は再建しないことになっている」と述べ、銅像寄付の申込を断ることは異議なく可決されたという。
 
 日本戦没学生記念会によれば、10月下旬の時点ですでに大学側の事務局長は会側に対し「(一)戦争中武勲の勇士市川紀元ニ氏の像があつたが、戦争後再建しないことになつている。このように時勢によつて変るものでは困る。(二)本学に関係のある学術関係者以外には建てないしきたりである。(三)像が深刻すぎる。」(日本戦没学生記念会「われわれの報告」、『新日本文学』昭和26年2月号)と語っており、緊急評議会とは言うものの、「銅像の要件」という理屈を持ち出しての拒否回答は、おおむね既定路線であったことが伺える。
 
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市川紀元二像
(横山英『市川紀元二中尉伝』、昭和16年)
 
 しかし本音は、政治的な色彩を帯びた銅像が構内に立ち、学生の過激な行動に利用されるのを避けたいというところにあったようだ。先の事務局長は12月8日にわだつみ会の関係者を呼び、「学生が憤慨して今日の集会を強行するというが、もし像をかゝえて正門前で警官隊ともみ合うようなことになつて」(「われわれの報告」)と懸念を伝えたという。
 
 事務局長が黙して語らずではなかったおかげで、もう一つ興味深い話がある。余談であるがと前置きし、くだんの事務局長は「あの像は裸体であり、本学には女子学生もいることだし風紀の点でも………」(「われわれの報告」)と語っている。《わだつみ像》は裸であることも問題視されていたようだ。
 
 東京で野外に置かれたヌード彫刻のはしりは、《わだつみ像》の受入拒否からわずか数週間後の12月25日、大理石の台座に裸身を横たえ、クリスマスの上野駅前に現れた巨大なヴィーナス像であるという。そしてこの《汀のヴィーナス》の作者こそ、ほかでもない《わだつみ像》を作った本郷新であった(制作過程は岩波写真文庫『彫刻』で見ることができる)。もし東大に《わだつみ像》が建っていたとしたら。好奇の目にさらされ、話が余計にこじれて面白かったに違いない。
 
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《汀のヴィーナス》
(本郷淳『おやじとせがれ/彫刻家 父 本郷新の思い出』、平成6年)
 
 翌年昭和26年(1951)5月には皇居の眼と鼻の先、三宅坂小公園に裸婦の群像が登場している。戦前は寺内正毅の騎馬像が載っていた台座という象徴的な場所に置かれた菊池一雄の《平和の群像》は「建設時には裸体彫刻が猥せつでないことを区長や区議長に説かなくてはならなかった。皇居のお濠に面したこの裸像の不作法に対する非難や種々の平和運動への利用などで、この群像の建設後も暫くは千代田区役所に迷惑をかけることが多かった」(『菊池一雄』、昭和51年)。
 
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《平和の群像》
 
 公共空間にむやみやたらとヌード彫刻があふれ「日本ほどヌード彫刻が屋外に氾濫している国はないといわれている」(宮下規久朗『刺青とヌードの美術史』、平成20年)が、ほんの60年前の街角では好奇や非難の目と闘いつつヌード彫刻が平和を背負っていたのだ。今やヌード彫刻をそんな目で見ることも、そんな気負ったヌード彫刻もなくなった。ヌードはすっかり弛緩した。