東京大学噴水物語(六・続)

 政治的な銅像という連想から、大きく脱線して「汚れた英雄」という話をはさみたい。噴水とは全く関係ない。
 
 1980年代後半の東欧革命やソ連崩壊、近年ではイラク戦争で、一国の「英雄」の威信が一夜にして地に堕ち、銅像が引き倒されるという光景がたびたび報じられてきた。しかし、これから登場するのは、象徴的な意味で「汚れた」英雄ではなく、物理的な意味で「汚れた」英雄の銅像である。もちろん、「汚れた」は銅像が、である。奥さんが銅像を見て似ていないと言った、言わない、そればかりが逸話ではない。上野公園の西郷さんの銅像にご登場いただこう。
 
 明治42年(1909)7月1日付の『東京朝日新聞』で見つけた記事が発端だった。「露観光団の昨日」という、ロシアからやってきた観光団による東京市中の見物記事だ。この記事の「銅像の紙玉」という中見出しがたまたま目に留まった。
 
 上野に到着した一行は思い思いの場所へ足を運び、上野公園ではこのようなやり取りがあったという。「正面の石段を山王台に上りて西郷の銅像の前に立つや中学教師のグルズトフスキー君案内記を出して是れこそ維新の元勲なれと教ふれば少年ヤゴウトキン変挺(ママ)な顔して爾な豪い人に何故紙玉を打附けるのだと不審顔なるも理り外国にて紙玉は軽蔑して投附けるを常とすとかや」。
 
 観光団の一員、ヤゴウトキン少年は西郷隆盛銅像を見て「そんな偉い人になんで紙玉をぶっつけるの」と一緒にいたグルズトフスキー先生に尋ねている。ヘンテコな顔になるのは100年後の私も同じだ。しかし、ヤゴウトキン少年とは少々事情が異なる。少年よ、一体、何の話をしているのだ?
 
 グルズトフスキー先生も詳しいことを教えてくれないので、さらにひと月ほど『東京朝日新聞』を読み進むと、8月13日付で「板垣伯の銅像/地下に建てヽ呉れとの御注文」という記事が見つかった。板垣退助の功績をたたえ、銅像を建てようという集まりの発起人が、銅像を建てる場所を板垣退助自身の元へ相談に赴いたという内容の記事だ。
 
 例の白ひげをしごきながら、
 
 板垣退助「上野の西郷さんは身体中へ紙玉を打付けられ、芝の後藤君は頭から烏の糞を浴びて居るが誰も気の毒だといふて掃除して呉れる人はない拙者も晩年少々名前の所は汚さぬでもないが身体は未だ嘗てアンナ汚ない目に遭つた事はござらぬ併し折角の思召でござれば銅像は地下に埋めて貰ひたいさすれば人も見ず烏も糞をかけず数百年の後また生れ替はる迄大きに安泰と申すものだ」
 
 建設委員「ギヤフン」
 
 カラスの糞にまみれる芝公園後藤象二郎(明治37年7月銅像除幕)のようにはなりたくないので、銅像を建てるなら地下に建ててくれというのはうなずける。しかしここでも、紙玉をぶつけられる西郷さんという不可解な例が語られている。ところが、その気になって記事を探してみると、ポツリポツリとパズルのピースが見つかった。
 
 これは昭和3年(1928)の渋沢栄一。こちらもまた、ぜひ銅像をと勧められての談話である。「後藤象次郎といふ人は偉い人であつたが芝公園の昼尚暗い立木の中にあるから知る人も少い、上野の西郷さんの豪傑振り西南の役当時をしのんで奥ゆかしいがかみつぶした紙をあゝ投げつけられてはいゝ気持ちはせない、だからどうぞ(銅像)やめてもらいたい」(『読売新聞』昭和3年3月23日朝刊)。ダジャレはしょうもないが、証言は貴重だ。ロシアのヤゴウトキン少年がやってきた時代から20年近くが過ぎているが、紙玉をぶつけられる西郷さんは健在であった。どうやら紙玉はクチャクチャと「かみつぶした紙」であるらしい。
 
 昭和13年(1938)。さらに10年が過ぎたが「例の紙つぶてと埃で台なし」(『読売新聞』1月10日付夕刊)、「一年中紙礫に見舞はれてゐる」(同4月25日付朝刊)との証言が続く。少なくとも30年近く、西郷さんは紙玉をぶつけられてきた按配だ。しかも「例の」「一年中」というからには一過性の流行などではない。それなりに広く知られた社会現象だったようだ。
 
 これだけの長い期間だ、もしやと思い、今の今までありきたりな絵葉書として気にも留めなかった西郷隆盛像を写した絵葉書を古書市で注意深く漁ってみると、出るわ出るわ。さすがに紙玉をぶつけられた瞬間をとらえた絵葉書はいまだ見ないが、たしかに紙くずらしきものが無数にこびりついた西郷さんの絵葉書が何枚も見つかった。
 
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 往時、西郷さんの銅像に押しかけた人々は一体全体、何をやっていたのか。昭和10年の新聞記事にわずかながら謎を解く手がかりがあった。「『鼻に当つたら出世する』といふので心らなずもぶつけられる紙つぶて」(『読売新聞』3月10日付夕刊)。西郷さんの鼻に紙玉を当てたら出世する。なんじゃその都市伝説は。しかし、紙つぶてを噛み、銅像に投げつけるというベクトルをたどっていくと、思わぬものに行き着いた。
 
 仏像の仁王様である。
 
 「仁王は本来、仏敵を撃退する役目だったのだが、江戸時代ころから庶民の信仰を集めるようになってゆく。(…)仁王像の股を子供がくぐると、疱瘡(天然痘)が軽くて済むという信仰も各地に残る。(…)さらに、病人、怪我人が紙つぶてを噛み、仁王像に投げつけるという風習もある。紙つぶてが、患部と同じ仁王像の部分に当たってひっつけば治るというのだ。(…)股くぐりも、紙つぶても、東北から九州まで各地に伝わるが、どちらかといえば、西日本よりも東日本に多いようである」(一坂太郎『仁王』)。
 
 「患部に当てたら病気が平癒する」ではなく「鼻に当てたら出世する」にアレンジこそされているが、まさに仁王信仰そのものだ。
 
 「神社仏閣の仁王に紙玉を吐つけて健康を試し又は千社参詣など称して其社殿の柱や梁や天井や扉やに姓名を記したる紙を貼り附ること漸く減じて近年ハ名刺を置き去ること流行す」(『東京朝日新聞』明治32年2月26日付)。銅像の除幕式からわずか数ヵ月後の新聞にこのような記事があった。西郷さんの銅像が上野に登場した時代、仁王像に紙玉を吐きつけるという風習が普通に行われていたことが伺える。
 
 西郷さんを仁王に見立てたという直接的な証拠こそないが、西郷隆盛銅像のどっしりとした風貌に人々が仁王様のイメージを見て取り、それが紙玉をぶつけられる西郷さんという現象を生んだのではないだろうか。ちなみに上野公園の銅像の原型になった木像は、鹿児島の「お寺」で下の写真のように飾られていたという。仁王まであと一歩である。
 
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上野公園の銅像の原型となった木像