東京大学噴水物語(七・続)

 西郷さんの大脱線から急いで本線へ戻る。
 
 大学側の《わだつみ像》受入拒否に対し、像の寄贈・設置を企画した「わだつみ会」を中心に各界からすぐさま激しい非難の声が上がった。しかし、大学側を動かすには至らず、運動は自然と下火になり、第2ラウンドは翌年5月に持ち越された。
 
 昭和26年(1951)5月、舞台は25日から始まった東大の五月祭。一悶着の末、26日と27日の両日、制作者である本郷新のアトリエで保管されていた《わだつみ像》は構内へ運ばれ、法文経28番教室の前で一般公開されることになった。
 
 初日から不穏な空気が漂う。教室に到着するや、「一部左翼学生が『明るい屋外に建てさせろ、平和の象徴である像をうすぐらい所に建てるのは日本を帝国主義者に売渡すというものだ』とアジリ始めひとさわぎが起ったが、像はそのまゝ室内に運び込まれた」(『読売新聞』5月26日付夕刊)。
 
 しかし、このままで静かに終わるはずもなかった。学生側は屋外展示を認めさせるべく「二十六、七日の二日間で四千以上の署名を集め」(『東京大学学生新聞』5月31日付)大学側に迫ったが交渉は進まず、憤激した一部の学生が五月祭最終日の27日午後3時過ぎ、「『わだつみの像の下に全学生よ結集せよ』とアジビラを散布しながらかけ声もろともかつぎ出し」(『読売新聞』5月28日付朝刊)、4時間にわたって屋外アーケード前に展示するという騒ぎに発展した。
 
 さらにこの五月祭を機に、東大の学内では学生団体による建立署名活動や建立委員会の立ち上げなど《わだつみ像》建立の動きが再燃し始めた。銅像学生運動に利用されることを危惧したという、かの事務局長の嗅覚の正しさが受入拒否から遠からず証明された格好だ。
 
 それにしても、建立推進派が語る当時の南原繁・東大総長や事務局長の姿は悪魔的である。推進派の牙城ともいうべき、わだつみ会の機関誌『わだつみのこえ』誌上の記事だということは大いに大いに差し引かなければならないが、赤ら顔で「本学の事情のあることで、さう貴方達の思うように簡単にはいきませんよ」(3号、昭和26年1月15日)と語る事務局長、《わだつみ像》の設置場所として「(靖國神社のある)九段あたりなら世話してやる」(8号、昭和26年6月22日)とうそぶく南原総長、完全にヒールである。
 
 ヒートアップする《わだつみ像》問題は、第3ラウンド、昭和26年秋、建立推進派から見れば悪魔の奸計とでもいうべきか、大学側が繰り出した予想外の一手でついに決着を迎える。