つちやたびの噴水広告(前編)

 明治時代後半から大正時代にかけて日本の足元を揺るがす大戦争が起こった。この戦争の年代記を紐解くと、大正4年(1915)頃の戦況を振り返り、このように記している。
 
 「この時代に於て特記しなければならないことは、九州、中国、四国方面に於ける有名な某足袋との激しい競争であつた。某足袋は主力を看板製作におき、あらゆる催物を眞向に振りかざして、漸次福助の地盤を侵さうとしたのである」「福助足袋はまだ、これに対抗するだけの資力は許されなかつたが、対手の作戦に対し、広告方針を変へて、一切の努力を新聞広告に集中することに決し、猛然こゝに奮ひ立つた」。熱を帯びた調子で語るこの年代記の名は『福助足袋の六十年』。当時「某足袋」と日本各地で販拡競争、宣伝合戦を繰り広げていた福助足袋の社史である。
                                                    
 明治15年(1885)大阪の堺で辻本福松が創業した福助足袋は、明治36年(1906)の第五回内国勧業博覧会への出品を機に大阪市内へ販路を拡大する。他社との商標争いに敗れ、創業以来の商標「丸福」を手放し、今に続く福神の福助を商標としたのもこの頃である。
 
 福助商標が生まれたのは明治33年(1900)元日、伊勢神宮への初詣の帰り道。二代目の辻本豊三郎と福助人形との伊勢の古道具屋での劇的な出会いを「時も元日、處も伊勢、これがただの人形とは思へない。正直な、真面目な福徳円満な姿の中に、尊い光がさし添ふとまで思はれた」と社史は記す。災い転じて福となす。丸福改め福助印堺足袋の「大阪市内への積極的進出は、地方開拓に拍車をかけ、まづ遠く、某足袋の本拠九州地方に向つて一花咲かせやうと計画した」。
 
 一方の某足袋も表現は控えめながら「当面の競争相手であった関西の某同業者の、積極的な販売攻勢に対して、その対抗上、大増産は1日も待つことができなかった」「需要の激増とともに関西某同業者との広告宣伝競争も、またはなばなしかった」と社史に記す。福助足袋が挑んだこの「某足袋」は「つちやたび」という。
 
 つちやたびは明治6年(1873)倉田雲平が福岡の久留米で創業。自ら「足袋王」と称した足袋界の雄はその後、日華護謨工業、日華ゴム、月星ゴム、月星化成と次第におなじみの名前に近づき、平成18年(2006)からは「ムーンスター」を社名としている。「つちや」は先祖代々の屋号「槌屋」から取り、昭和3年(1928)に月と星を組み合わせた月星マークを制定するまで、長らく「打ち出の小槌」を商標とした。ポスターやラベルにはしばしばその小槌を持って大黒様が登場する。主軸の商品は変えながら今なお日本の足元を支える両社の足袋屋時代の戦いは、大黒様と福助、足袋を履いた福の神様同士がっぷり四つの大相撲であった。