東京大学噴水物語(十・補遺)

 銅像には人を冷静ではいられなくする何かがあるらしい。銅像に涙し、激高し、かつぎ出し、戦場へ送り、紙玉をぶつけ、縄を掛けてひきずりまわす。銅像に振り回される人/銅像を振り回す人という連想で、東大五月祭と絡めて話を一つ。題して「忠犬ハチ公インサイドストーリー」。
 
 「諸君は東大医学部標本室に収められてある驚くべき珍奇な標本の数々に接した事があるだろうか。もしまだだったとしたならば、毎年一回公開される五月祭に延々と続く長蛇の列に加わり給え。」(高木彬光『刺青殺人事件』雑誌初出版、昭和23年:『昭和ミステリ秘宝 初稿・刺青殺人事件』に再録)

 大正12年(1923)5月5日に挙行された「第一回大園遊会」を起源とする東大・本郷キャンパスの学園祭である「五月祭」。エロ・グロ・ナンセンスの時代と云われる大正時代末から昭和の初めという時期は、五月祭の黎明期と重なっている。

 黎明期の五月祭で不動の一番人気を誇ったのは医学部である。人体の輪切り標本や頭にちょんまげを残した江戸時代の武士のミイラ(死蝋)、皮膚病の蝋製模型など「門外不出の珍品にグロ氣タツプリ」(『帝国大学新聞』昭和7年5月2日付)の展示に例年、来場者は列をなしたという。
 
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「土肥教授在職廿五年記念 皮膚病蝋製標本陳列館」絵葉書

 昭和11年(1936)の五月祭から農学部が新たなメンバーとして加わった。人気の程はどうだったか。「何しろ始めての学内開放に不慣れを気づかわれた農学部も杞憂を一掃朝から物すごい人気」(『帝国大学新聞』昭和11年5月4日付)と、まずは上々のすべり出し。これで自信を得た農学部の獣医学科が翌年、グロの医学部に負けじと「特別公開」と銘打って持ち出したのはなんと、2年前の昭和10年(1935)に死んだばかり、美談の記憶も新しい忠犬ハチ公の内臓であった(『帝国大学新聞』昭和12年5月3日付)。話題性という意味では確かに「特別公開」の看板に偽りなしのインパクトだ。
 
 ところで、なぜ農学部にハチ公の内臓があったのか。
 
 死後まもなく老犬の解剖を行ったのは、実は東大の農学部である。ハチ公の命日は昭和10年(1935)3月8日。当時、農学部は渋谷駅に程近い駒場にキャンパスを構えていた。ハチ公が渋谷駅で待ちわびた上野英三郎博士自身、駒場時代の農学部で教授を務めており、ハチ公の晩年には同じ農学部の獣医学者・板垣四郎博士が「主治医」を買って出ている。農学部が旧制一高とキャンパスを交換し、本郷へ移転するのはこの年で、引越は6月頃から年末に及んだという(「東大農学部の歴史」http://www.a.u-tokyo.ac.jp/history/history3.html)。つまり、ハチ公の死はちょうど農学部がキャンパスを移す端境期の出来事で、駒場農学部で解剖され、日本犬研究の貴重な標本として農学部で保存されることになった内臓はほどなく本郷へやってきたという訳だ。
 
 かくして、新参者として気負う農学部の意気込みを背負った内臓であったが、忠義の老犬の肝硬変を起こした肝臓と寄生虫フィラリアの巣食った心臓は「腹黒い人間達に皮肉な感を与へ」過ぎたようで(『帝国大学新聞』昭和12年5月3日付)翌年には五月祭から姿を消してしまった。

 その後、平成10年(1998)に本郷で開かれた「ヒトと動物の関係学会」で(某紙の言を借りると)「初公開」されたハチ公の心臓と肺、肝臓と脾臓を納めた二つの標本瓶は現在、農学部正門脇の瀟洒な農学資料館で見ることができる。
 
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平成20年(2008)撮影
 
イメージ 3平成20年(2008)撮影
 
 して銅像は?という声がそろそろ出そうなので、標本瓶の傍らにある胸像に目を向けよう。飼い主であった農学部教授、上野英三郎博士である。ここでも、学生という生き物はロクなことをしない、の歴史は繰り返す。
 
 昭和58年(1983)の五月祭。農学部の学生有志の発案で「胸像をミコシにして渋谷に繰り出し、〔ハチ公の銅像と〕『ゴターイメーン』」(『朝日新聞』昭和59年4月9日付朝刊)という催しが企てられたが、渋谷署から待ったがかかり、あえなく中止となった。しかし、諦めが悪いのも学生の美徳。「渋谷でハチ公まつりを主催している銅像維持会に持ち込み」、とうとう「ゴターイメーン」を実現させてしまう。
 
 昭和59年(1984)4月8日、上野博士の胸像は保険まで掛けてトラックで渋谷駅前のハチ公像の前に運ばれる。「魂ほえて飛びついた」(『読売新聞』4月9日付朝刊)、「待ちました60年」(『朝日新聞』4月9日付朝刊)。ついに感動のご対面というわけだ。たかが銅像、されど銅像
 
 「ハチ公が亡くなられて五十年、心の豊かさが求められる今こそ、ハチ公像の意義は大きい」「心を忘れ勝ちな現在、ハチ公に笑われないように」(以下同『朝日新聞』)。来賓各位のいささか大げさなハチ公礼賛をよそに「待ち合わせの目印に近寄れない人々の当惑顔が目立った」。そして当の学生はというと「もっと軽い調子でやるつもりだったんですがね」。
 
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朝日新聞』昭和59年(1984)4月9日付朝刊