東京大学噴水物語(九・完)

 「年に二三度の他は可能性をひそめて黙す『九輪』」(『東京大学学生新聞』昭和29年5月21日付)とは物は言いよう。昭和26年(1951)に復活を果たした噴水塔であったが、水を噴き上げるのはもっぱら学園祭など特別な時ばかりだった。美化せずに語れば、「いつも土偶の坊のように感じられる図書館前の噴水塔も五月祭当日には、飛び散る水玉に映えた虹が美しかつた」(『東京大学学生新聞』昭和28年5月28日付)などと皮肉まじりに紹介されることの方が多かったようだ。
 
 しかし、この「たゞの噴水、しかも滅多に水の出たことのない」重役噴水には重役噴水の事情があり、「要するにお金がないからだ。もっとも大学に賓客が来たときや五月祭など全学的お祭りの場合には一時間三百円也の水を出すというからまるっきり出ないわけではない」(『読売新聞』昭和28年6月20日付朝刊)ということだったらしい。
 
 もっとも、この噴水、すでに戦前から水の出ない噴水として名を馳せていた。わだつみ会からは「戦争中も高らかに水を噴き上げていた」と糾弾されていたが、五月祭の時期の『帝国大学新聞』を読み返すと、それもなかなか疑わしい。「めつたに水の出たことの無い図書館まへの噴水、今日はシユウシユウと気持よく水をあげてゐる、そのまへに群つたのは何と本学の学生ばかり、『噴水はヤツパリ良いね』とはじめてみる壮観に感慨無量の態」(昭和10年5月6日付)、「図書館前には『水を噴き上げない噴水』が生を取り戻したかの様に活発に動いて威勢を添え」(昭和11年5月4日付)という有様だ。学生でさえ稼働する噴水を滅多に拝んだことがなかったのであれば、あの噴水が噴いているのを見るとなんとやら」式の学内伝説が一つや二つ、期待できそうである。誰か書き残してくれてはいないものだろうか。
 
 このように、もともと大して噴水としての体を成していなかった嫌いはあるが、昭和43年(1968)、44年の東大紛争はとうとう噴水にとどめを刺してしまう。ヘルメットにマスクという出で立ちの学生たちにゲバ棒でガツンと一発やられたのだろうか、「噴水は、大学紛争以来故障のため休止」を余儀なくされたという。歴代図書館長や学内関係者からの強い要望を受けて、再び作動するようになったのは、平成元年(1989)の10月のことであった(『学内広報』845号)。
 
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朝日新聞』昭和43年(1968)11月13日付朝刊1面
 
 ちなみに、東大紛争のクライマックス、東大安田講堂攻防戦から4ヶ月後の昭和44年(1969)の5月20日には、当時京都の立命館大学に流れ着いた《わだつみ像》が「全共闘派学生によって根元からもぎとられ、首になわをつけてひきずりまわされた。このため、わだつみ像は頭が割れ、腕が折れた」という事件が起きている(『朝日新聞』昭和44年5月20日付夕刊)。《わだつみ像》があのまま東大に立っていたとしたら。歴史に「もしも」はなく、あり得たかも知れない物語のことは分からないが、ただ一つはっきりと分かるのは、関の東西を問わず、つくづく学生という生き物はロクなことをしないということである。
 
 ようやくたどり着いた物語の最後は、少々気取った文章ではあるが、図書館前の噴水と空間に捧げられた最大級の賛辞で締めたい。
 
 「小亭を隔てて、三四郎池の木立、右手に謹直な図書館、左に文学部研究室の柔らかなタイル。大きな広場が各所にありながら慌しい東大構内にこれは又見事にしつらえられた庭園、東大建築群の作者内田祥三氏のよさが、いやみなく表現された場所はここであろうか。直線の強調、直角の反復を破る同心円の構図、薄茶と灰色の交錯に画かれた白御影石と青銅の色調。千年の昔をしのばせる九輪の荘重さを現代的な軽快さでまとめた噴水塔のすつくと立つた姿は美しい『噴水は都市の清き母』噴水の軽快な動力学は、都市の新らしい美を可能にする」(『東京大学学生新聞』昭和29年5月21日付)
 
 かくして、東大の噴水は今日も美しい。黒歴史は面白い。
 
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