つちやたびの噴水広告(後編)

 つちやたびは九州一円、中国、四国、関西と販路を拡大していく過程で、人目を引く目新しい宣伝広告を積極的に取り入れた。九州で初めて自動車を購入し宣伝カーとして走らせたという二代目倉田雲平(初代倉田雲平の長男金蔵)の夫人は「主人はかねがねつちやたびという名称をひとりでも多くの人に知っていただくことが第一であるといって、地元の催物のあるごとに、それは熱心に宣伝しました。水天宮さまの記念共進会のときなどは、子どもたちに持たす小旗をつくるのにたいへんでした。…町はつちやたび一色に塗りつぶされたようでした」(『月星ゴム90年史』)と述懐する。
 
 「水天宮さまの記念共進会」とは、つちやたびの地元久留米で大正3年(1914)に開かれた水天宮七百年大祭記念久留米勧業共進会である。つちやたびはこの共進会に巨大な広告塔と大噴水を出展している。まず目に飛び込んでくるのは本館正門前の「高さ十間の朱塗五重塔」(『福岡日日新聞』4月28日付)とその壁面には書かれた「つちやたび」の文字。五重塔の手前の池には「大黒天及び児童二人の白亜像」(同)を配し、池の後方には「高さ二間の瀑布」(同)を設けた。打ち出の小槌を振り上げた大黒様と、大黒様のお使いのネズミを手にした子どもの彫刻は噴水の装置になっており、「大黒天の振上げたる槌と唐子が手に捕へたる鼠の口とより噴水し」たという(『九州日報』4月26日付)。五重塔の足下には「大小の樹木を植込みて森林中の塔の如く見せ」るという演出。五重塔の朱色、植込みの緑、噴水彫刻の白の鮮やかなコントラストは宣伝効果もさぞかし大きかったことだろう。
 
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 広告の歴史はその時々の産業界の情勢を映し出す。「大正六年の大東京の広告網――電柱は花王石鹸が独占してゐる。電燈広告の目抜の処は、仁丹に先を越され身動きがならない」(『福助足袋の六十年』)。『日本広告発達史』によれば、明治大正の広告史を牽引したのは「売薬」「化粧品」「書籍」の三大広告主であった。続いて「煙草」や「ビール」「呉服店・百貨店」などの広告が街を彩った。
 
 そして足袋の時代。「1917年ごろから福助足袋、オニタビ、つちやたびなど、足袋の広告の進出が目立っている」(『日本広告発達史』)。足袋は時代の先端を行く産業であった。「足袋ほど短期間に於て、日本人独特の叡智と才能とによつて、手工業制度より大工場制度へと足を運んだ産業は他に例はない」「足袋産業革命史は、真に日本の産業革命史である」(『足袋の話 足袋から観た経済生活』、大正14年)。近代的な工場での大量生産が足袋の大量販売を可能とし、大量販売・販路拡大は積極的な宣伝広告を必要とした。販拡競争に福の神様のみならず鬼まで加わって活況を呈する足袋業界が大広告主として登場する。
 
 大正11年(1922)東京の上野公園で開かれた「平和記念東京博覧会」。第二会場となった不忍池には、ひときわ目を引く二つの巨大な噴水塔があった。ひとつは化粧品業界の西の雄、神戸生まれの中山太陽堂が設置した「カテイ石鹸大噴水塔」。塔の四面に自社のブランド商品「カテイ石鹸」「クラブ洗粉」「クラブ歯磨」「クラブ白粉」の名前を掲げた巨大な広告塔である。もう一つが「つちやたび水晶塔」であった(ちなみに第一会場には「花王石鹸」の長瀬商会が噴水塔を設置した)。
 
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 「不忍池の中程に巍然として聳ゆる大噴水、水晶塔は大阪のつちや足袋本舗の経営に係り此建坪廿二、四角塔の五層樓で塔全体をガラス張りとし塔の最上部にはつちや足袋の商標、七尺余の赤銅色大黒天が才槌を振り上げた立像を安置し最下層には大岩石を配置して宛ら池中の小島の如く岩上には鶴、亀、五葉の松等の模型を配し五階窓口より一時間五百石以上を噴出する仕掛ありモーター二十馬力を備へ汲み上げた水を四方の窓口から玉垂の瀧の如く流下させて観者に涼味を與へる趣向になつている。尚夜間は四千燭光のイルミネーションを装置して大噴水を照し一大火塔と化せしめ一入の美観を添へる筈である」(須賀健吉編『平和記念東京博覧会案内』)
 
 
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不忍池畔に屹立せるつちやたび水晶塔」全面広告
(『福岡日日新聞』大正11年4月25日付)
 
 水晶塔は四面ガラス張り五層の塔で、一層ごとに壁面に「つ」「ち」「や」「た」「び」と商号を一文字ずつ配し、塔の最上部では2メートル余りの大黒様の銅像打ち出の小槌を振り上げる。上部から噴き出した水はガラスを伝い、幕となって塔を包んだ。内部には無数の電球が設置され、塔全体の色を変化させる壮大な仕掛けが施されていたという。足袋屋の広告合戦が生み出した巨大な噴水塔は、当時の足袋業界の勢いを体現した広告塔でもあった。