「噴水の日」をめぐるすっきりしない話
どこの誰が言い出したのか、8月21日は「噴水の日」だという。この「噴水の日」をめぐるすっきりしない話を書いてみたい。試しにネットで「噴水の日」の由来を調べてみると、表現は多少異なるが、およそ次のような文章が出回っている。
「1877(明治10)年のこの日、東京・上野公園で第1回内国勧業博覧会が開催され、会場中央の人工池に日本初の西洋式の噴水が作られた。落成したのは9月8日だった」。
とても不思議な文章だ。噴水が落成したのが9月8日だったというなら、「噴水の日」は9月8日でよさそうなものだが、8月21日だという。この「落成したのは9月8日だった」という落ち着きの悪い一文はどこからやってきたのだろう。
噴水が作られたという内国勧業博覧会は、明治新政府の殖産興業政策に基づき、各地の物産の出品を募り、産業促進を図ったイベントである。第一回が1877(明治10)年に東京・上野で開かれ、以降、第二回と第三回は同じく東京・上野、第四回は京都、第五回は大阪で開催されることになる。8月21日は記念すべき第一回内国勧業博覧会の開場式が行われた日である。
翌日付の『読売新聞』を読んでみると、開場式模様に続き、場内の状況として「美術館前の噴水器は未だ出来あがらず」と書かれている。なんとまあ、「噴水の日」は8月21日だと言いながら、この日に噴水が噴き上がっていなかったことがさっそく判明してしまった。「落成したのは9月8日だった」というヘンな一文がくっついてくるのは、どうやらここに事情があるようだ。「この日、東京・上野公園で第1回内国勧業博覧会が開催され、会場中央の人工池に日本初の西洋式の噴水が作られた」というだけでは嘘になってしまうのだ。
戦前の博覧会のことを調べていると、開場した後も会場施設の設営工事がまだ続いているという事例は決して珍しいものではない。この内国勧業博覧会でも噴水のみならず、場内の「動物館」には僅かしか動物がおらず、肝心の出品も出つくしていないことが報じられており、見切り発車の開場だった様子が伺える。
さて、噴水はどうなったかといえば、9月8日付の『東京日日新聞』。「上野の博覧会場にて美術館の前に設けられたる噴水器は此ごろ落成して一尺五寸も噴き上げ」とある。開場から二週間以上が経ち、ようやく落成したようだ。しかし、あくまで「此ごろ落成」であり、「9月8日落成」とは書かれていないことに注意が必要だ。
はっきりと9月8日落成とする別の新聞記事が出てくれば別だが、8月21日、9月8日のいずれも「噴水の日」を名乗るにはすねに傷ありである。であれば無理に「噴水の日」を決めることもなさそうなものだが、唯一日付のはっきりしている開場式の日を無理矢理当てはめたということなのだろう。
また、この噴水が「日本初の西洋式の噴水」だったというのが記念日たるゆえんだが、これが曲者だ。「日本初の噴水」とは言っていないのだ。極論をいえば、噴水というものは水を噴き上げさえすれば噴水と呼べる訳で、「日本初の噴水」を決めることなど不可能である。石井研堂は『明治事物起原』において噴水の起源を「本邦にて、この噴水を仕掛けし始めは、十年八月開催の第一回内国勧業博覧会なり」とするが、鵜呑みにするのは難しい。そこで「日本初の西洋式の噴水」という言い方になったのではないだろうか。
しかし、その実、どのような噴水のことを「西洋式」というのかさっぱりわからない。デザインが「西洋式」なのか。構造が「西洋式」なのか。そもそもどこからが「西洋式」なのか。「和式」噴水というのもあるのだろうか。ちなみに「近代においては1903年開園の日比谷公園の東京美術学校製作の鶴の噴水が洋式噴水のはじめとなった」とする百科事典もある。おかしなことに日比谷公園の案内板によれば、鶴の噴水は
「公園等での装飾用噴水」としては日本で三番目に古く、一番目は長崎の諏訪神社だという。とまあ、すっきりしないことこの上ない。
とはいえ、明治時代から一気に花開く日本の噴水の歴史にあって、第一回内国勧業博覧会の博覧会の噴水が最初期の貴重な作例であることは間違いない。最後にどんな噴水だったか見ておこう。